世界は「届かないとは思わない」YOSHIKIが語る日本エンタメ界の現在地と、LAで挑戦を続ける訳
僕は、向こうに行ってアメリカの人になろうとは思っていなかった。日本人として出て行って成功したいと思っていたので、自分を変える必要はないと。最初からそこは決まっていたが、いろいろ学ばなきゃならないとは思っていた。英語もそうだし、最初の何年かは聖書も読んだ。どうして彼らはこう思うのかという文化をまず学ばなければ、英語の歌詞も書けないから。
ただ、1つだけ壁があったとしたら、やはりバンドで行く以上はみんながその意志、その気持ちにならなければいけない、ということ。自分の価値観をメンバー全員に押し付けるのは良くない。それがあって、何となく僕がLAに残り、他のメンバーは日本を拠点に、という形になった」
ドキュメンタリー映画『WE ARE X』では、ロックバンドKISSのベーシストでありボーカルも担当するジーン・シモンズ(イスラエル生まれのアメリカ人)が、「もしX JAPANが英語圏に生まれて英語で歌っていたら、世界一のバンドになっていたかもしれない」と語るシーンがある。YOSHIKIは、当時はこの言葉のハードルが、音楽以外の面にも影響し始めていたと明かす。
「言葉の壁が、思っている以上に精神的な負担になってしまったところはあった。当時はこういったインタビューも英語でできないし、周りにいる人たちが何をしゃべっているのかが分からない。ある種、パラノイドになってしまうのかな。言葉の壁がもっと大きな壁になっていってしまうのかもしれない、と思った。
それでも言葉は話せるようになるからね、勉強すれば。それほど簡単なことはないと言ってしまったら誤解を生むかもしれないが、勉強は頑張った分だけ、努力の分だけ成果は出る。でも例えば作曲は、時にはそうではない。どんなに時間を費やしても、できないときはできないから」
X JAPANはこの海外進出をめぐってメンバーの方向性がずれ始め、97年にToshlが脱退し一度は解散する。しかし10年後の07年に再結成し、その後は北南米、アジアやヨーロッパを股に掛けてツアーを敢行。ハイライトとなったのが、14年のニューヨークのMSG公演だった。とはいえYOSHIKI自身は、それも「ドアを開けた程度」だと表現する。
「まだ、自分が何かを『達成した』感はない。大きな海外公演も、ずっとやっていけるようにならなければ。18年にはコーチェラに出演したけれど、その後にコロナ禍に入ってしまったので......」
X JAPANとして、再び海外で活動する予定はあるのだろうか。
「僕自身は、ここまで来たら、という言い方は変だけれど、決して届かないところにいるとは思っていない。すごく時間もかかってはいるが、そういった階段を着実に上ってきていると思っているので。
ただやはり、X JAPANに限らず、ユニットでもバンドでも僕以外の誰かとやる場合には、本当に海外に向かいたいのかをみんなで確認しないといけないと思う。
海外に出たいアーティストは、世の中に死ぬほどいる。その国ですごく有名だったり、その国でナンバーワンでもナンバーツーでも、国の数だけいる。今後もX JAPANとして世界でやっていくかというのは難しい質問で、今の時点ではイエスでもノーでもない。海外でコンサートをやるかと聞かれれば、なくはないと思う。でもまずは、アルバムの発売かな」