世界は「届かないとは思わない」YOSHIKIが語る日本エンタメ界の現在地と、LAで挑戦を続ける訳
あの頃、ロックバンドがテレビに出るなんて違うとか、ロックでCDを100万枚なんて売れるわけがないとか言われていて。僕のやっていることは間違っていると言う人たちに対して、そういう前提は全部壊しちゃえと思う気持ちでやっていた。
そんななかで、思ったより早くというか、本当に一瞬で(91年の初の)東京ドームにまで行ってしまった。協力してくれる素晴らしい人たちにも恵まれたし、もちろん簡単なことではないのだが、思ったよりは大変じゃなかった。本当に楽しんでいると、仕事とそれ以外の境目というのはあまりない。なので、働いているという感覚もあまりないし、楽しくて、そのまま一瞬でミリオンセラーと東京ドームまで行ってしまった。じゃあ海外も、その勢いで行っちゃえ!と......。
あとは、僕以上に(亡くなった)TAIJIとHIDEが完全に洋楽志向で、海外で通用するロックバンドになりたいという気持ちがとても強かった。TAIJIはアメリカンなハードロックがすごく好きで。HIDEはブリティッシュとかも好きだった。
僕自身は、本当はロンドンに行きたかった。歴史的背景も含めて、ヨーロッパがとても好き。4歳からピアノを始めて、もともとはクラシックが好きだったので、行くなら漠然とヨーロッパというのがあった。でも、音楽で勝負するんだったらやはり(エンターテインメントに強い)ロサンゼルスだ、ということでアメリカに渡った」
そして92年8月、ニューヨークのロックフェラーセンターで記者会見を行い、レッド・ツェッペリンなど世界的アーティストを輩出してきたアトランティック・レコーズと契約し、世界進出することを宣言。そこで、現地の記者から「英語が母国語ではないバンドがアメリカで成功した例はない」と言われ、厳しい洗礼を受ける。
「その質問もすごかったけれど、それに対して僕がしゃべっていた英語の発音の悪さ! ああ、このレベルだったんだって(編集部注:この会見は16年制作のドキュメンタリー映画『WE ARE X』に収録されている)。
日本で駆け上がった勢いでアメリカに......と思って行ってみたら、考えていたのと全然違っていた。当時の僕は英語をしゃべれなかったし、やはりアメリカにいると、日本で培ってきたプライドとか、そういうものはズタズタにされるわけですよ。
先ほど、日本では思ったより順調に行ってしまったって話したけれど、やはりその間には全国のライブハウスを回ったり、ものすごく細かいプロモーションをしたりとか、たくさんのことを経験していた。そうやって日本でもある程度のところまで行ったので、ああ、これを今度は世界規模でもう一回やるの?と。
そう思ったとき、わくわく感と同時に100%やれるかどうかは自分でも分からなかった。日本にいればある意味、地位もある。それを全部脱ぎ捨て、裸になって、もう一度向かっていけるのだろうかと。
でも、できない要素はないとも思った。英語は、やれば必ず成果は上がる。だったらしゃべれるようになればいいやと思って、2年くらい勉強して、まずは話せるようになった。要するに、自分にとってマイナスだと思う要素を全部消去していった。