河瀨直美監督の「東京五輪」映画を、「駄作」扱いするのは大間違いだ
Tokyo 2020 Redux
コロナ禍で無観客かつトラブル噴出のオリンピックを河瀨監督(写真、後ろ向きの人物)はあくまで主観的に切り取った ©2022-INTERNATIONAL OLYMPIC COMMITTEE-ALL RIGHTS RESERVED.
<興行成績の低迷が伝えられる五輪公式記録映画『SIDE:A』『SIDE:B』だが、河瀨直美監督の主観に基づく映画作りは成功している>
河瀨直美総監督の五輪公式記録映画『東京2020オリンピック SIDE:A』に続き、『SIDE:B』が公開されている。五輪組織委員会の財務報告によれば大会経費は結局1兆4238億円に上った。これだけの巨費を投じた国家的イベントが後世に何を残すのか。その1つの縁(よすが)と期待されていたのが河瀨の記録映画だったが、現時点での興行成績は低迷している。
5000時間に及ぶ撮影素材を河瀨は2本に編集した。まず『SIDE:A』はアスリートの人間像を中心に描く。公式記録映画として想定されるような金メダル獲得のハイライトシーンはほとんど映されない。
難民選手団の水泳選手、モンゴル代表のイラン人柔道選手、引退した女子バスケットボール選手、沖縄出身の空手家、スケートボードやサーフィンなどの若きアスリートが葛藤し努力する姿の群像劇が積み重なる。網羅的記録としてのアーカイブ性は放棄され、選手の人生が五輪を結節点として「何か」と交差する瞬間が描写される。
この映画に関して河瀨はしばしば競技の金メダルではなく「人生の金メダル」を称揚する発言をしている。その言語的無垢性はさておき、記録や勝敗を超える価値がダイバーシティやジェンダー、努力と挫折などに見いだされる。五輪に「出場できなかった」元選手の姿をこれほど丹念に映し出す五輪記録映画がかつてあっただろうか。
令和日本の問題が全て凝縮された五輪
これに対して『SIDE:B』は記録色を強め、五輪開催に至る一連の経緯を時系列で描く。焦点が当てられるのは「舞台裏」。著名か無名かを問わず関係者の語られざる悪戦苦闘が、開催反対運動、コロナ禍での延期、森喜朗・五輪組織委会長の失言辞任、酷暑による札幌マラソン開始時間変更といった出来事を題材に淡々と語られていく。
今回の東京五輪ほど問題が噴出したオリンピックはない。招致活動の贈賄疑惑に始まり、エンブレム盗用、コロナ禍による延期と無観客開催、開会式の演出変更と土壇場での演出家解任など、次々にトラブルに見舞われた狂想曲的なカオス状況は、なし崩しの対応と責任所在の空虚という点で、令和日本の抱える問題全てが凝縮されている感すら漂った。映画で取り上げられたのはそうした問題のごく一部だ。
その取捨選択の恣意、あるいは取り上げた問題に対して回答を提示しない傍観への不満がいわば協奏曲となって、興行的失敗の背景となっている。しかし本作はそのように批判される駄作なのだろうか。