最新記事

ドキュメンタリー

河瀨直美監督の「東京五輪」映画を、「駄作」扱いするのは大間違いだ

Tokyo 2020 Redux

2022年7月14日(木)18時55分
北島 純(社会構想⼤学院⼤学教授)

220719p54_TKY_02.jpg

©2022-INTERNATIONAL OLYMPIC COMMITTEE-ALL RIGHTS RESERVED.

この映画の特徴は登場人物のクローズアップである。時に画面をはみ出すほどに近接された顔の中で、焦点が当たるのは「眼」だ。眼の動きに肉薄するカメラを通じわれわれは被写体を見るだけでなく、その瞳の中に撮影を監督する河瀨本人を見いだす。

身体で唯一鏡として機能する瞳に焦点を当てる手法はそうした再帰的な映像回路を際立たせる。アスリートの発する声と息吹をノイズ除去によって強調する技術と相まって、「河瀨直美が見ようとしているものを観客が見るという関係」が構築されるのだ。河瀨の瞳を通してあの暑い日々、開催をめぐって国論が二分された東京五輪の日々を想起する。

VRゴーグルと「色眼鏡」

あたかも1つの視点から構成された、VRゴーグルを装着して没入するような映像作品を河瀨が用意しているのだとしたら、その世界を受容できるかどうかは見る側の構えによる。五輪批判という色眼鏡をはじめから掛けている者は、それを外さない限りこの映画を体験することは難しい。

それでも主題選択の偏りに違和感を覚える人もいるだろう。「女性」「子育て」「バッハIOC会長・森会長」は正面から取り上げるが、「開会式の評価」「巨額経費」「安倍晋三元首相」は不在だ。

しかし、左右それぞれの政治的立場が衝突した五輪の記録として、全てに配慮した客観的中立的な「公式映画」を一体誰が今更見たいというのだろうか。市民的自由であれ国家の誇りであれ、何らかのあるべき姿を想定する政治的思考に対して、人間の生を捉えて表現する芸術的思考は発露の瞬間に輝きを見いだす。「政治の積分性」と「芸術の微分性」は二律背反であるがゆえにその交錯は物議を醸す。

その混沌の中で光明を見いだすべく、1人の映像作家がどう五輪を見たかを基軸にしてドキュメンタリーを制作するという戦略は奏功していると言うほかない。河瀨が作り上げたこの映画は実のところ、他に類を見ない傑作である。

とはいえ、この作品は市川崑の『東京オリンピック』のように50年後100年後まで語り継がれるものになるのか。

1936年のベルリン五輪公式記録映画『オリンピア』2部作を制作したレニ・リーフェンシュタールは、肉体礼賛の美学を先駆的な撮影技術で映像化した天才だ。しかし政治的無垢性ゆえにナチズム擁護者のレッテルを貼られ指弾を浴び、作品の価値は毀損された。彼女はその後、アフリカの「無垢な未開部族」ヌバや「ただただ美しい」サンゴ礁の写真撮影にのめり込む。芸術家としての退行すなわち胎行化は映画史に残る悲劇だ。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、米軍制服組トップ解任 指導部の大規模刷

ワールド

アングル:性的少数者がおびえるドイツ議会選、極右台

ワールド

アングル:高評価なのに「仕事できない」と解雇、米D

ビジネス

米国株式市場=3指数大幅下落、さえない経済指標で売
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:ウクライナが停戦する日
特集:ウクライナが停戦する日
2025年2月25日号(2/18発売)

ゼレンスキーとプーチンがトランプの圧力で妥協? 20万人以上が死んだ戦争が終わる条件は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 3
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 4
    1888年の未解決事件、ついに終焉か? 「切り裂きジャ…
  • 5
    飛行中の航空機が空中で発火、大炎上...米テキサスの…
  • 6
    ソ連時代の「勝利の旗」掲げるロシア軍車両を次々爆…
  • 7
    私に「家」をくれたのは、この茶トラ猫でした
  • 8
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 9
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 10
    メーガン妃が「アイデンティティ危機」に直面...「必…
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 3
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ...犠牲者急増で、増援部隊が到着予定と発言
  • 4
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン…
  • 5
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 6
    朝1杯の「バターコーヒー」が老化を遅らせる...細胞…
  • 7
    7年後に迫る「小惑星の衝突を防げ」、中国が「地球防…
  • 8
    墜落して爆発、巨大な炎と黒煙が立ち上る衝撃シーン.…
  • 9
    ビタミンB1で疲労回復!疲れに効く3つの野菜&腸活に…
  • 10
    「トランプ相互関税」の範囲が広すぎて滅茶苦茶...VA…
  • 1
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    【一発アウト】税務署が「怪しい!」と思う通帳とは?
  • 4
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 5
    「健康寿命」を延ばすのは「少食」と「皮下脂肪」だ…
  • 6
    1日大さじ1杯でOK!「細胞の老化」や「体重の増加」…
  • 7
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 8
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 9
    有害なティーバッグをどう見分けるか?...研究者のア…
  • 10
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中