河瀨直美監督の「東京五輪」映画を、「駄作」扱いするのは大間違いだ
Tokyo 2020 Redux
この映画の特徴は登場人物のクローズアップである。時に画面をはみ出すほどに近接された顔の中で、焦点が当たるのは「眼」だ。眼の動きに肉薄するカメラを通じわれわれは被写体を見るだけでなく、その瞳の中に撮影を監督する河瀨本人を見いだす。
身体で唯一鏡として機能する瞳に焦点を当てる手法はそうした再帰的な映像回路を際立たせる。アスリートの発する声と息吹をノイズ除去によって強調する技術と相まって、「河瀨直美が見ようとしているものを観客が見るという関係」が構築されるのだ。河瀨の瞳を通してあの暑い日々、開催をめぐって国論が二分された東京五輪の日々を想起する。
VRゴーグルと「色眼鏡」
あたかも1つの視点から構成された、VRゴーグルを装着して没入するような映像作品を河瀨が用意しているのだとしたら、その世界を受容できるかどうかは見る側の構えによる。五輪批判という色眼鏡をはじめから掛けている者は、それを外さない限りこの映画を体験することは難しい。
それでも主題選択の偏りに違和感を覚える人もいるだろう。「女性」「子育て」「バッハIOC会長・森会長」は正面から取り上げるが、「開会式の評価」「巨額経費」「安倍晋三元首相」は不在だ。
しかし、左右それぞれの政治的立場が衝突した五輪の記録として、全てに配慮した客観的中立的な「公式映画」を一体誰が今更見たいというのだろうか。市民的自由であれ国家の誇りであれ、何らかのあるべき姿を想定する政治的思考に対して、人間の生を捉えて表現する芸術的思考は発露の瞬間に輝きを見いだす。「政治の積分性」と「芸術の微分性」は二律背反であるがゆえにその交錯は物議を醸す。
その混沌の中で光明を見いだすべく、1人の映像作家がどう五輪を見たかを基軸にしてドキュメンタリーを制作するという戦略は奏功していると言うほかない。河瀨が作り上げたこの映画は実のところ、他に類を見ない傑作である。
とはいえ、この作品は市川崑の『東京オリンピック』のように50年後100年後まで語り継がれるものになるのか。
1936年のベルリン五輪公式記録映画『オリンピア』2部作を制作したレニ・リーフェンシュタールは、肉体礼賛の美学を先駆的な撮影技術で映像化した天才だ。しかし政治的無垢性ゆえにナチズム擁護者のレッテルを貼られ指弾を浴び、作品の価値は毀損された。彼女はその後、アフリカの「無垢な未開部族」ヌバや「ただただ美しい」サンゴ礁の写真撮影にのめり込む。芸術家としての退行すなわち胎行化は映画史に残る悲劇だ。