プロ転向を表明した、羽生結弦の「第2章」がいよいよ開演
A New Freedom To Shine
当時の羽生は、既に現在の姿を彷彿させる。4回転ジャンプこそないが3回転半ジャンプは安定し、世界ジュニア選手権のフリーでは冒頭で60センチの高いジャンプを跳んだ。ジュニアの演技は間延びして見えがちだが、彼はショートプログラム(SP)とフリースケーティング(FS)で全く曲想の違うプログラムを演じ分け、観客を飽きさせない。
しかも15歳当時で169センチ、柔軟性も高い。フィギュアファンは「技術、表現力、スタイルの三拍子そろった男子選手が現れた」と歓喜した。
10-11年からはシニアに上がり、順調に成績を伸ばす。だが東日本大震災が発生し、ホームリンクは再度閉鎖に。地方のリンクを転々とした羽生が自分のリンクに戻れたのは、4カ月後だった。
「自分の滑りで、少しでも仙台が元気になれば」と語り続けた11-12年、17歳で初出場した世界選手権(仏ニース)で羽生は伝説になった。ショート7位と出遅れたが、フリー「ロミオ+ジュリエット」の迫真の演技で2位につけ、銅メダルを獲得。「ニース落ち」(ニース大会の演技で大ファンになること)という言葉が流行するほど熱狂的なファンを増やした。
コーチをカナダのブライアン・オーサーに変更したのが12年。自分はライバルがいたほうが伸びるタイプと分析し、習得したい4回転サルコウが跳べるハビエル・フェルナンデスと同門になるためだ。
この年、日本フィギュア界に転機が訪れた。羽生は全日本選手権のショートで、絶対的エースだったバンクーバー五輪銅の髙橋を超えて1位につける。髙橋は素晴らしい演技でフリー1位となったが逆転できず、羽生が初めて全日本王者になった。
ソチ五輪前年に羽生のライバルと目されたのは、髙橋とカナダのパトリック・チャンだった。大きな国際大会で優勝経験のないことが羽生の弱点とみられていたが、五輪直近のGPFは髙橋がけがで辞退したためチャンと一騎打ちに。羽生はチャンを倒し、髙橋の出場した全日本も制した。
ソチ五輪ではショートで100点超を獲得し、世界最高得点を更新。フリーはベストスコアより15点近く低かったものの、19歳で金メダルを獲得した。
五輪の金で一般にも知られるようになると、羽生の人気はさらに爆発。羽生が出場する試合やショーのチケットは争奪戦となり、ファンは羽生見たさに海外まで足を運んだ。旅行会社は、こぞって海外観戦ツアーを企画した。