プロ転向を表明した、羽生結弦の「第2章」がいよいよ開演
A New Freedom To Shine
ソチ後はけがと戦い続け
羽生を象徴する「絶対王者」という呼称が登場したのもこの頃だ。15年NHK杯優勝の際に、羽生が「絶対王者だぞと自分に言い聞かせてやりました」と語ったことが由来とされる。これは「五輪チャンピオンの絶対王者だ」と自称したと捉えられがちだが、羽生は後に「絶対、王者になるぞ」と自分を鼓舞する言葉だったと語っている。
絶対王者の呼称はファンやマスコミの間に広まり、多くの場合、五輪金の後も競技を続行し「羽生結弦」であることにストイックに向き合う姿に王者の風格を読み取って、好意的に使われた。しかし競技成績だけにこだわる人は、羽生が試合に負けると「もはや絶対王者ではない」と揶揄し、本人やファンを苦しめた。
ソチ後の4年間、羽生はフェルナンデスと世界王者を競う。史上初の300点超えで優勝した15年NHK杯と、逆転優勝した17年世界選手権の演技が印象的だが、一方でけがと戦い続けた時期でもあった。
18年の平昌五輪には前年からの右足負傷が完治しないまま臨むことになったが、66年ぶりの連覇を遂げる。この偉業がたたえられ、個人としては最年少の23歳6カ月で国民栄誉賞が授与された。
羽生は今回の会見で「平昌五輪で引退しようと思っていたが、四大陸選手権の金や4回転半にこだわり続けた結果北京まで続いた」と語っている。
19年スケートカナダでは、総合点の自己最高を更新して優勝。勢いは止まらず、翌年の四大陸で優勝して悲願のスーパースラムを達成した。しかし4Aは「1000回以上挑んで、まだ跳べてない」と昨年4月に語っている。
平昌後のフィギュア界は、多種多数の4回転ジャンプを演技に組み込むことが必須の時代を迎える。羽生は高難度ジャンプの実施と自分が目指す表現者としてのスケートの両立に悩みつつ、18年のルール変更でリセットされた世界記録をさらに7回更新した。
羽生の北京五輪シーズンは、五輪選考会を兼ねる前年末の全日本が初試合となった。ショートを文句なしの出来栄えで終え、フリーで宣言どおり4Aにチャレンジ。両足着氷かつダウングレード(1/2以上の回転不足)で3回転アクセル扱いとなったが、73センチの大跳躍を見せた。羽生は優勝し、五輪代表に選ばれた。
北京五輪本番ではショートで氷上の穴に引っ掛かり、4回転サルコウが0点となる不運で8位発進。1位のネイサン・チェンと18.82点の差がついた。メダルを重視するなら4Aへの挑戦はリスクが高すぎたかもしれない。しかし羽生は自分しかできないジャンプにこだわった。