プロ転向を表明した、羽生結弦の「第2章」がいよいよ開演
A New Freedom To Shine
羽生の「決意表明」会見は温かい雰囲気の中で行われた(7月19日) KIM KYUNG-HOONーREUTERS
<フィギュアスケートの「一つの時代」は終わった。しかし、他者との戦いから自由になることで、「自分しかできないジャンプ」と「自分が目指す表現者」をより追求できるようになり、さらなる高みへ>
7月19日17時、フィギュアスケート選手の羽生結弦(27)は前日に告知した「決意表明」の記者会見を始めた。関係者や集まった記者らに謝意を伝えると、すぐに「プロのアスリートとして、スケートを続けていくことを決意いたしました」と語った。
つまり競技生活を終え、アイスショーなどで活躍するプロスケーターに転向するということだ。羽生は「引退する」という言葉を決して使わなかった。
フィギュアスケートでは、競技会に出場する選手は全てアマチュアだ。プロ転向で選手登録を外れると、五輪や世界選手権などへの出場資格はなくなる。
現在の規定では、プロに転向しても1度だけアマチュアに復帰できるが、羽生は「(競技会から離れる)寂しさは全然ないです。今後は試合という限られた場でなく、もっといろいろな方法で自分のスケートを見てもらえる」と晴れやかな顔で語った。
ソチ、平昌(ピョンチャン)の五輪2連覇、男子初のスーパースラム(五輪、世界選手権、四大陸選手権、グランプリファイナル〔GPF〕、世界ジュニア選手権、ジュニアGPFで優勝)の達成、世界記録を通算19回更新、北京五輪で五輪史上初の4回転半(4A)ジャンプ挑戦──数々の偉業を成し遂げた「絶対王者」が、競技会から去った。この日、フィギュアスケートの一つの時代が終わった。
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「ニース落ち」が続出
仙台市で生まれ育った羽生は、姉の影響で4歳からフィギュアスケートを始めた。ぜんそくの持病があり、改善が目的の1つだった。小2からは都築章一郎コーチに師事し、順調に実力を伸ばしていく。
都築コーチの指導はジャンプの正しい回転軸を重視するもので、羽生の代名詞である美しいジャンプの礎となった。9歳で全日本ノービスB(9~10歳)優勝、2カ月後には初参加の国際大会で優勝した。
しかし、直後にホームリンクが閉鎖。離れたリンクに練習拠点を移さざるを得ず、2007年までの約2年半は競技成績が停滞した。
ホームリンクの営業再開後、羽生の快進撃が始まった。振り付けもできる阿部奈々美コーチに師事すると、全日本ノービスA(11~12歳)で優勝。08-09年シーズンにジュニアクラスになると、全日本ジュニア優勝。翌シーズンは国際試合で全勝し、髙橋大輔、織田信成、小塚崇彦に続く4人目かつ日本人男子最年少の世界ジュニア王者となった。