母語は今やサビつかない
「おじさん」と「おじいさん」の区別に驚くアキコさん
それから10年後の70年代終わり、わたしはアメリカでアキコさんという日本女性と知り合った。
10歳の時に一家で広島から移住し、アメリカ人男性と結婚して、男の子がひとりいた。当時、彼女は28歳。両親のほかにはほとんど日本人との付き合いがなく、日本語を忘れてしまったというアキコさんだが、どうにか意思の疎通はできた。
あるとき、アキコさんが「おじさん」と「おじいさん」の区別がつかないことにわたしは軽いショックを受けた。説明すると、彼女は目を丸くして、「日本語っておもしろいね! おじさんとおじーさん、音を伸ばすかどうかで全然違う意味になる!」と驚いたのである。
母語というのは意識せずに使っているものだ。「ゆき(雪)」と「ゆーき(勇気)」、「ごかい(誤解)」と「ごーかい(豪快)」、「おの(小野)」と「おーの(大野)」と枚挙にいとまがない。言われてはじめて母音の長短で意味がすっかり変わってしまうことにわたしは気づいた。
計算は母語で?
そんなアキコさんだが、まったくサビついていない日本語があった。計算するときにはかならず日本語だったのだ。そのとき、日本語、とくに九九は短くてテンポがよく覚えやすい、おまけに数字が簡略なので計算も早いという話を思い出した。たしかに同じ「19」でも「じゅうく」というのと「ナインティーン」とでは時間差がある。
だからアキコさんが日本語で計算したのをみたときに、やっぱりそうなんだとひとりごちたのだった。
ところが今から数年前、60年も続いている鎌倉のドイツレストランに40年ぶりに行った時のこと。今や80代とおぼしきドイツ人の女主人は変わらず元気で日本語を流暢に話していたが、支払いの時に、打ち間違えたからと言って紙に書いて計算をやりなおした。
その時、おどろいたことに突然ドイツ語になったのだ。思わず「あら、ドイツ語なんですね」と言ったところ、彼女は「計算は今でもこっちの方が早いので」と答えたのである。
日本にきて半世紀以上になるはずなのに......とわたしは驚いたが、そのときふと頭にうかんだのは、別人に成りすましていた外国人の犯人が、うっかり母語で計算したために捕まってしまうというオチのドイツの推理小説だった。