ウディの新境地『それでも恋するバルセロナ』
幼い頃からアレンは運命の不条理に頭を悩ませてきた。「5歳まではとても陽気な子だったと、母が言っていた。5歳を境に陰気な子になったらしい」。死を意識したせいだと、アレンは振り返る。本人の記憶では、揺りかごにいた頃から死を考えていたという。
「普通の子供より揺りかごに長居したのかもしれないけどね」。そう言っていたずらっぽく笑う表情を見ていると、虚無的な言動も演技ではないかと勘繰りたくなる。だが、古代ギリシャの悲劇詩人ソフォクレスの言葉「この世に生まれてこないのが何よりの恵み」に共感すると語る顔は真剣だ。
普段は暗い人生観が家族に伝染しないように気を付けている。「こういうことをぺらぺら娘たちに話したりしない。前向きでいようと精いっぱい頑張ってるんだ」
観客が陰気な人生観にうんざりしかねないことも理解している。『ハンナとその姉妹』は自分が演じたキャラクターが恋人に捨てられ、孤独になったところで終わらせたいと思ったが、観客の反応を考えてやめた。
「美しい町の美男美女」も結末は...
とはいえ、現実の人生にハッピーエンドはないというのがアレンの持論だ。「『スターダスト・メモリー』のオープニングシーンみたいなものさ。汽車の行き着く先はみんな同じ。ごみ捨て場だ」
特に死が心に重くのしかかる時期なのかもしれない。『それでも恋するバルセロナ』の撮影中、敬愛するイングマール・ベルイマンとミケランジェロ・アントニオーニ両監督が亡くなった。長年、プロデューサーを務めた盟友チャールズ・ジョフェも08年に死去した。「年を取ると時間の概念が変わる」とアレンは言う。「人生のはかなさや無意味さを痛感するんだ」
ただ不思議なことに、話を聞いていて暗い気持ちにはならない。むしろ人生の意義は日常の小さな積み重ねにあると説く陳腐な人生論を拒否する姿勢には、すがすがしさを覚える。
アレンの日常に楽しみがないわけではない。楽しみが積み重なっても救いにはならないと思っているだけだ。「おいしい食事をして、いい音楽を聞けば、そりゃ楽しい。ただ、そういうものが積み重なって何かを生むわけではない」
この見方は『それでも恋するバルセロナ』にも反映されているという。「美しい町と美男美女を見た観客は、ああ楽しい映画だったと感じるかもしれない。それはそれでいい。でも僕の考えでは、どの登場人物も結末は不幸せだ」
次回作には厭世的な芸風で知られるコメディアンのラリー・デービッドを起用した。「人間性を直視する映画と現実から逃避させてくれる映画、どちらにより価値があるのか簡単には決められない」と、アレンは言う。
「ベルイマンの難解な映画より、フレッド・アステアのミュージカルのほうが人々の役に立っているとみることもできる。ベルイマンは絶対に解決できない問題を題材にするけれど、アステアの映画では登場人物がシャンパンのコルクをぽんと抜き、たわいないおしゃべりを交わす。レモネードみたいに観客を元気にしてくれる」
けれど映画館を1歩出れば、そこは偶然が人を翻弄し、人生が意味を持たない世界。念のため、私たちもバナナの切り方に気を付けたほうがいいかもしれない。