「走る哲学者」為末大が、競技人生を通してたどり着いた「熟達」にいたる「学びのプロセス」とは
「空」の世界に触れて思ったことは、「体は賢い」
──次に「空」についてお聞きしたいと思います。2001年世界陸上エドモントン大会で「空」を意識したことについて語られていましたが、この体験についてもう少し詳しくお聞きできますか。
為末 私は考えるのが好きなアスリートだったので、自分の体をどうやったらうまく扱えるかをずっと考えてきたんですね。でもいざ本当に重要な勝負になったとき、むしろ何も考えないほうがうまくいった感じがしたんです。
体験としては時間感覚が少しおかしくなって、あっという間に終わった気もするし、ハードルを跳ぶのがコマ送りのように感じられた気もする。観客の音が小さくなって足音が大きくなって、トンネルの中を走っているような、そういう感覚が残っていました。大げさに言うと「俺が走ったの?」という感覚に近い。あとはよろしくねって体に預けちゃったら、体がつい反応して走ってしまったというような。
──不思議な体験ですね。その体験の後に、競技に対するアプローチやトレーニングに変化はありましたか?
為末 「体は賢い」という気づきですね。それまでは頭が賢くて、体は道具だと思っていたんですけど、実は体が賢くて、頭は勝負するときには邪魔になるのではないかと思うようになりました。
考えてみると、体のパーツはあまりにも複雑で微細なので、頭ですべてをコントロールすることなんてできないわけですよね。ある部位を動かそうとしても、実際にはかなり漠然とした指令しか与えられていなくて、体が勝手に調整して細かく動いている。だから、そこに頭が指令を入れようとすると、ノイズになってしまうのかもしれません。
もちろん、トレーニングでは頭で考えていいんですけど、本番ではむしろその制御を外して、ただただ体が周辺環境と合わさっていくのに任せたほうがうまくいくんじゃないかと思います。
──本番で走るときに、どれくらい体に任せようとしているのでしょうか。
為末 コントロールができないロボット選手権みたいなイメージです。日常の練習ではロボットに「こういう状況でこうやって動くんだよ」とプログラミングしていって、当日そこにロボットを置いた後は、環境に合わせて勝手に動くのに任せると。そこでエラーが起きたとしたら、それは当日の問題ではなく、事前のシミュレーションの問題という考え方をします。
当日に手足をどう動かすかみたいな具体的なことを考えると、混乱が強くなって、エラーが出る感じがするんですよね。それよりも「今日は、前半をキレよくいこう」くらいの抽象度で考えるほうがうまくいきます。