「走る哲学者」為末大が、競技人生を通してたどり着いた「熟達」にいたる「学びのプロセス」とは
陸上は屋外でやる競技なので、前から風を受けると歩幅が3センチくらい縮んでしまって、ハードルを跳ぶ際のズレがだんだん大きくなったりするんです。だから、周辺環境に自分を合わせながら微調整をしなければいけないんですが、頭を使ってコントロールするのではなく、体が勝手に感じて調整していくという状態が理想ですね。
もちろん、最初から体に任せたらうまくいく訳ではありません。体が微調整してくれるようになるまでの鍛錬は、熟達の段階の中にあります。
──頭が認識できていない情報や言語化できていない情報も体はキャッチしていて、それまで鍛錬してきた自分の体が調整してくれるということですね。
為末 競技人生の最後のほうになると、自分が自分の体をどうやって調整しているのか、すべてはわからないんじゃないかと思うようになりました。全身で感じている風の強さとか、地面を踏んだときの筋肉の反応が普段と比べてどうかとか、体が複雑な情報を統合して微調整しているんだと思うんですよね。そんな量の情報を、自分で認識して思考して意思決定できるはずがない。体のそれぞれの部分が自律分散的に環境に対処していて、なぜかわからないけど全体でうまくいっている。局所的な情報しか認識できていない脳がそこに中途半端に介入すると、うまくいかなくなるということなのではないかと思います。
学びを楽しむことで、人は幸せに生きていける
為末 『熟達論』を書くときに、最初に編集者の方から「熟達って何のためにやるんですか」と聞かれたんです。私はその答えを、本の中で「自我からの解放」と書きました。振り返ってみると、自分自身の競技人生は、解放への道だったなと思ったんです。
体を型にはめていくというと、不自由になる感じがするじゃないですか。陸上の世界なら、わざわざレーンの上を走って、ハードルという決まった形の障害を跳べるようにしないといけない。でもだんだん体がそれに慣れていくと、最終的にはいろいろな概念から解き放たれて、体そのものが動いていくという世界が来る感じがします。最初はあることに特化して窮屈になる一方で、心理的にはすごく解放感を持っている。その矛盾の中で、最終的には自己が解放される感じがします。