チェ・ゲバラから「ピッチ」の秘訣を学ぶ
作家の世界では、カリスマ性を持つものは滅多にいない。『キャッチ=22』が愛読されていても、作者のジョセフ・ヘラーの顔を思い出す人はどれほどいるだろうか。だが画家には、作家よりもカリスマ性を持つ人が多い。たとえばサルバドール・ダリは、金の亡者で性的欲求不満を抱えた老いぼれのろくでなしだったにもかかわらず、カリスマ性をにじませていた。だが同じシュールレアリスムの画家ルネ・マグリットは、ダリと並び立つ作品を描きながら、カリスマ性はなかった。生気を欠いた不安げなアンディ・ウォーホルはカリスマ性をもっていたが、彼と並ぶ才能の持ち主であるポップ・アーティスト、リヒテンシュタインとラウシェンバーグはそうではなかった。ピカソは絶大なカリスマ性の持ち主だったが、ピカソと共にキュビズムを生み出したジョルジュ・ブラックはというと、写真を見せられても誰だかわからないのではないだろうか。
こうした魔術的才能を授かった特異な人物たちを眺めてみると、人さまざまだが、二つの共通した特徴があるようだ。第一に、人と違うことを恐れていないということ。第二に、これが重要なのだが、自分自身を楽しんでいるようにみえること。この二つの才能――私は才能だと思っている――をもう少し掘り下げてみよう。
第一の、人と違うという点からいえば、ダリはワックスでヒゲを固め、滑稽なポーズを取り、擬似哲学的な芸術特有用語を並べ立て、できるだけ人と違ったように振る舞った。私たちが敢えてしないことをした。それが秘訣だった。
ピカソとウォーホルも、周囲とかけ離れた別格の存在だった。ピカソは独創性に富んだ作品を数かぎりなく生み出しただけでなく、派手で気ままな生活を送り、次々と愛人を変えては新たな方向性の絵画への刺激剤にした。ウォーホルは作品をわざと大量生産することにより、一千年の芸術史を根本から覆した。自らのアトリエを「ファクトリー(工場)」などと呼んだりする芸術家が、他にいるだろうか。
ウィンストン・チャーチルはもちろん、人と違うことを恐れなかった。大きな葉巻を常に口にくわえ、午前中はずっと眠り、夜通し働いて、バスタブに横になりながら重要な軍事機密文書を秘書に口述したばかりか、常人が一生かけて飲むほどのシャンパンを一週間で飲み干していた(これを戒めてベシー・ブラドック議員が「チャーチルさん、酔っていますね!」と言うと、彼が「いかにも、マダム。それにしてもあなたは不細工ですな。私の酔いは明日には覚めますがね」と答えたのは有名な話だ)。