チェ・ゲバラから「ピッチ」の秘訣を学ぶ
カリスマ性には、感じられるが目には見えないという不思議な性質がある。見えなくても、ありありとあるのだ。カリスマ性を定義するには、それを持つ人物を特定するしかないように思える。近年のもっとも有名なカリスマ的人物の一人は、チェ・ゲバラだろう。キューバを訪れれば、彼の顔が金属に彫られていたり、ハバナのメイン・スクエアの数階建てのビルの外壁いっぱいに描かれていて唖然とする。千種類を超えるTシャツを生み出し、キューバのみならず世界中の人々に抑圧からの開放のメッセージをもたらしたのが、あの顔だった。
ゲバラはカリスマの要素をすべて備えていた。理想に燃え、自由のために戦い、勝利し、そのうえハンサムだった。さらに、若くして死んだせいで、よりいっそう伝説的地位を確実なものにした。ジェームズ・ディーンとマリリン・モンローも、悲劇的だったとはいえその好例である。
カリスマとは、そういうことなのか? ハンサムで早死にすればカリスマになれるのか。ゲバラだけなら、そう思えるかもしれない。だが、ゲバラの革命仲間のフィデル・カストロはどうだろう? もちろん彼も偉大なカリスマだが、ゲバラほど外貌に恵まれていないからといって、みんなとやかく言ったりしないだろう。
もう一人の偉大な政治指導者として、カストロと同じく容姿に恵まれなかったウィンストン・チャーチルがいる。言うまでもなく、彼の戦争指導者としての偉業は素晴らしかったが、チャーチルにはそれ以前から確固たるカリスマ性が備わっていた。彼が戦時に見事なリーダーシップを発揮したのは、そのカリスマ性ゆえである。第二次大戦後、チャーチルの跡を継いだクレメント・アトリー首相は、おそらく近代政治史上もっとも冴えず、もっともカリスマ性に欠けた人物だと言われている。だが、二〇世紀の平時の政治においてもっとも重要な功績といえる福祉国家の建設は、ほとんどアトリーが独力で行なったものだ。カリスマ性がどういうものであれ、チャーチルにはあり、アトリーにはなかった。つまり、カリスマ性は功績とは無関係であり、人間のあり様と関係しているものなのだ。
世界的な著名人でいえば、ビル・ゲイツにはカリスマ性があるはずだ。なにしろ自らの事業で人々の生活を変え、世界一の大富豪にのし上がった人物だ。それだけでカリスマ性十分なはずだが、それがそうではない。マイクロソフト社と何十億ドルの資産がありながら、彼にはカリスマ性がない。イギリスのチャールズ皇太子もそうだ。イギリスの王位継承者で、巨万の資産を保有し、目も眩むほど美しい妻をめとったうえに愛人まで抱えてもだ。