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1983年の孤独なピーターパン
「ときには「Wacko Jacko(変人マイケル)」とも呼ばれたマイケル・ジャクソンという人間の『芯』を垣間見ることができる記事。断食、言葉遣い、宗教……。計り知れない実像のヒントがふんだんに盛り込まれている」(本誌・山田敏弘)
[ニューズウィーク米国版1983年1月10日号の記事を日本版2009年7月22日号にて掲載]
「後年のマイケルの孤独や奇行を予兆していたような内容。彼の死後、日本のメディアで目にしたのは、晩年も含めた回想・追悼ものが大半だった。絶頂期の彼を取材した当時の記事をそのまま読めるというのは珍しく、新鮮だったと思う」(本誌・中村美鈴)
「古きよき時代のニューズウィーク的な記事」(本誌・横田孝)
超ヒット・アルバム『スリラー』発売直後のマイケル・ジャクソンに独占取材。希代のスターの知られざる素顔と孤独とは
マイケル・ジャクソン(24)は既に14年近くショービジネスの世界にいる。全米デビューは69年。10歳だった彼は4人の兄と組んだ「ジャクソン・ファイブ」のリードボーカルとして、ステージの上で元気いっぱい歌っていた。
それから約10年間でマイケルが売ったレコードは、グループとソロ合わせて9000万枚以上。黒人エンターテイナーの伝統を受け継ぐとともに、アルバムも売ることができる大スターに成長した。79年のアルバム『オフ・ザ・ウォール』では、テクノ風のサウンドを取り入れた新しいブラックミュージックを80年代に送り込んだ。このアルバムからは4曲が全米トップ10入りし、ソロアーティストによる同一アルバムからのヒットとしては史上最多の記録を作った。
現在24歳になったマイケルの快進撃は止まりそうにない。彼が作曲とプロデュースを手掛けたダイアナ・ロスの「マッスルズ」は、最近全米トップ10入りを果たした。映画『E.T.』の朗読アルバムで朗読と歌の担当もした。そして待望の新作『スリラー』は、アップビートを前面に押し出したエネルギッシュな仕上がりとなっている。80年代ポップスの代表作となるのは間違いなさそうだ。
だが派手な見た目とは裏腹に、マイケルの素顔は謎めいている。キラキラの衣装でステージに立つ姿は、今にも獲物に襲い掛かるジャガーのように優美でしなやかだ。写真の中のマイケルは、甘いマスクに天使のようなあどけなさと中性的な魅力が混ざっている。だが直接会ってみたマイケルは、ひょろりとした用心深く無口な青年で、そのくせ子供のような不思議なオーラ。
マイケルはロサンゼルス郊外の高級住宅地に母親と2人の妹と住んでいる。チューダー朝の邸宅が立つ敷地内にはさまざまなペットがいる。ラマのルイスに大ヘビのマッスルズ、羊のミスター・ティブスなど、ちょっとした動物園だ。
「かわいいよね」と、マイケルはささやくような声で言う。「動物たちの世界に入っていって、じっと動きを見ているのが好きなんだ。ただ見ているだけでいい」
5歳の初ステージは大盛況
マイケルは子供の世界も大好きだ。「アルバム制作に行き詰まると、僕は自転車に飛び乗って近くの学校へ行く。そうして子供たちを身近に感じる。そうすると、スタジオに戻る頃には自分の中にエネルギーが満ちてくる。子供たちにはそういうパワーがある。マジックだよ」
マジックはマイケルの世界を解き明かすキーワードだ。おとぎ話の世界(ネバーランド)を呼び出す呪文のように、彼はマジックという言葉を何度も使う。ベートーベンもレンブラントもチャプリンも、マイケルにとってはみんなマジックだ。
それだけではない。「昔から空を飛ぶ夢をよく見る」と言うマイケルは、映画『E.T.』で自転車に乗った子供たちが飛ぶシーンが大好きだと言い、一息つくと身を乗り出して続けた。「僕らは飛べるんだ。ただ宙に浮かぶために何を思い描けばいいか分かっていないだけだ」(ちなみに、ピーターパンには「ハッピーなことを心に思い描けば飛べる」というセリフがある)
マイケル・ジャクソンがピーターパン? 冗談じゃないと思われるかもしれないが、その前に彼の生い立ちを振り返ってほしい。インディアナ州ゲーリーの黒人居住区で9人きょうだいの7番目に生まれたマイケルは、ほとんど揺りかごからステージに直行した。「家の裏に野球ができる大きな公園があった」とマイケルは振り返る。「みんなが応援してる声が聞こえたけど、僕は野球をやりたいと思ったことは1度もない。いつも家で(歌の)練習をしていた」
ジャクソン・ファイブの一員として初めてステージに上がったのは5歳のとき。「僕らが歌うと、みんながお金を投げ込んでくれた」とマイケルは言う。「10セントとか20セントとか、小銭をたくさん。ポケットが小銭でいっぱいでズボンがずり落ちてくるから、いつもベルトをきつく締めて。キャンディーをたくさん買ったよ」
やがてジャクソン・ファイブは素人コンテストで優勝するようになった。黒人権利団体の慈善イベントに出演したこともある。この団体の指導者だったリチャード・ハッチャーは、後にゲーリー初の黒人市長となったとき、ジャクソン家に大きな「恩返し」をした。