「政治的中立性」という言葉にビビりすぎている
沖縄の普天間基地移設をめぐって、翁長雄志知事が辺野古への埋め立て承認を取り消したものの、政府はわずか2週間で取り消しの効力停止を決定、辺野古の本体工事に着手した。基地の前で語気を荒げる市民の様子を各紙で確認したが、その中のいくつかで「文子おばあ」の姿を見つけて、こみあげてくるものがあった。
基地移設の反対運動を追ったドキュメンタリー、三上智恵監督『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)』で、「私を轢き殺さないと通れないよ。死なせてから通ってみろ」と基地の前で体を張っていたのが文子おばあだった。15歳の時に地上戦を経験し、母親は米軍の手榴弾と火炎放射器にやられて左半身を大火傷、視力を失った。沖縄の怒りを背負った文子おばあは、もう何度目か分からない憤怒の渦の中に巻き込まれていた。
この『戦場ぬ止み』の自主上映会の後援を「政治的色合いが濃い」との理由で断ったのが千葉県山武市である。この映画では、沖縄経済を活性化させるためには基地は止むなしと考える県民たちの意見も入っているし、県民よりもアメリカ軍人を守らなければならない任務に矛盾を感じている(と信じたい)若き沖縄県警の警察官の表情も追っている。多角的な目線を入れこみながら、確かに「政治的色合い」は強い。しかし、機動隊が文子おばあを引き倒し、救急車で運ばれていく姿を見てもらう機会を「政治的」との理由を用いて剥奪するならば、どちらが政治的だ、とオウム返ししたくなる。
判断する側は「今回は特例」と言い聞かせたり、「誰かに言われる前に」と譲歩したり、いずれも些事として処理しようとする。しかし、こういった積み重ねはいつのまにか恒常化する。今、「政治的中立性」という言葉に慣らされることでその手の事態が頻発していないか。「中立性」にビビる、って、その言葉がもはやフラットではないことを教えてくれる。政治的中立性が、思考を停止させるスイッチになりつつある。この言葉で増殖する自粛を真に受けすぎてはいけない。
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