現代ロシアの病、妄想か現実か......『インフル病みのペトロフ家』
ロシアの母なる大地に根ざした信仰の世界
しかし、筆者が本作で最も印象に残ったのは女性の人物像だ。ペトロフの元妻ペトロワのなかには男性に対する強い殺意があり、家事のじゃまをする息子の首を掻き切る妄想すら抱く。そして、メガネを外すと人格が変わり、図書館で変な本のリクエストばかりする上に、彼女に差別的な発言をした男や、文学サークルの活動で騒ぎを起こした男、同僚に暴力を振るう彼女の夫などを徹底的に痛めつけ、殺害していく。
そしてもうひとりが、76年のエピソードに登場するマリーナだ。彼女の人物像は、パズルのような構成を通して浮かび上がってくる。2004年に一緒に酒を飲んでいるペトロフ、イーゴリ、ヴィーチャは、お互いに気づいていないが、彼らの会話や回想から、かつてそれぞれに同じ女性と関りを持っていたことがわかってくる。そんな図式が見えたところで、画面はモノクロに変わり、76年のマリーナを中心とした物語が描かれることになる。
そんなマリーナの人物像に話を進める前に、筆者が注目しておきたいのが、ロシア文化史の研究者ジョアンナ・ハッブズが書いた『マザー・ロシア ロシア文化と女性神話』のことだ。本書の視点を要約すれば、もともとロシアには、母なる大地に根ざし、女性原理に基づくアニミズム的な信仰の世界があり、そこにキリスト教が導入され、父権制を押しつけられ、ふたつの原理のせめぎ合いが二重信仰に繋がったといえる。
『マザー・ロシア ロシア文化と女性神話』ジョアンナ・ハッブズ 坂内徳明訳(青土社、2000年)
では、そんな状況が叙事詩にどのように反映されるのか。そこには、「まさしく最初から、母と息子の不自然な関係と父親不在が強調されている」というような設定が表れる。セレブレンニコフの過去作から浮かび上がる世界も、そんな設定と無関係ではない。
たとえば、『Yuri's Day(英題)』(08)には、有名なオペラ歌手の母親リューバと息子のアンドレイが登場する。母親はヨーロッパに移住する前に、息子を連れて故郷の田舎町を訪れるが、名所を散策するうちに彼女に反発する息子が失踪してしまう。町に留まり息子が戻るのを待つ彼女は、次第にステイタスを捨て去り、別人へと変貌を遂げていく。それは、マザー・ロシアの化身への変貌と見ることもできるだろう。
『The Student(英題)』(16)に登場するのは、母親とふたりで暮らす高校生の息子ヴェーニャだ。世界が堕落していると考える彼は、高校で聖戦を開始する。水泳の女子のビキニや避妊に反対し、進化論を否定する。いつも聖書を持ち歩き、理論武装して引用を連発する彼には、母親も歯が立たず、女性校長も丸め込まれ、リベラルな女性教師が必死で抵抗するが、彼女も振り回されていく。高校の会議室の壁に掲げられたプーチン大統領の写真も暗示的といえる。
男性たちは、過去を引きずるか、飲んだくれるか、自殺するか......
そんな過去作に表れた母親と息子の関係を踏まえてみると、本作の女性像がより興味深く思えてくる。
ペトロフにとってマリーナは、彼が4歳のときにヨールカ祭で手を繋いだ雪むすめだった。幼い彼は、彼女の手が冷たかったので、本当に雪でできているのかと思い、「本物?」と尋ねる。彼には彼女が神秘的な存在に見えた。一方、当時、青年だったイーゴリにとってマリーナは憧れの英語の家庭教師で、実はイーゴリと関係して身ごもっていた彼女は、中絶を考えていたが、ヨールカ祭のなかでその決心が揺らぐ。
その後マリーナがどうなったかは、彼女の弟であるヴィーチャの発言で明らかになる。子供を産んだ彼女は故郷ネヴィヤンスクでゴミ扱いされたが、ペレストロイカのときに息子とともにオーストラリアに移住した。
そして、モノクロの76年から現在に戻ったとき、ペトロフの部屋のテレビから、以下のような歌詞の歌が流れてくる。
「どうしたらいい? 私は雪むすめ、優しくて、騙されやすい。だから私を厳しい罰が待っている。でも、もっと恐ろしいのは、少年少女たちに、私がいないと、決して新しい年が来ないこと、新しい年が!」
それは、マリーナの運命を物語っているようでもある。
本作に登場する男性たちは、過去を引きずるか、飲んだくれるか、自殺するか、虚構に逃避するかで、みな頼りない。一方、女性たちは、母となってロシアを離れ、あるいは一気に殺人へと行動をエスカレートさせる。そこに女性原理と男性原理のせめぎ合いはなく、すれ違い、文化の崩壊を描いているようにも思えてくる。
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