G8財務相会議の朝、IMF理事が死体で発見される 『修道士は沈黙する』
つまり、この会議にはケインズの理想が入り込む余地などまったくない。にもかかわらず、ロシェは挨拶でそのことに言及する。そんな発言は、彼に何らかの心境の変化が起こりつつあることを示唆している。
ニュートンとケインズのリンゴの違い
さらに、リンゴの比喩についても確認しておくべきだろう。ロシェは周知の事実として具体的な説明はしないが、これは知っておいて損はない。彼は、ケインズが弟子のハロッドに送った有名な手紙の一部を引用している。その部分は以下のように綴られている。
「私は、経済学はモラル・サイエンスの一つである点をおおいに強調しておきたいのです。私は先に経済学は内省と価値を取り扱うと申しました。経済学は動機、期待、そして心理的不確実性を取り扱うと付け加えておけばよかったでしょう。事実を一定で同質的なものとして取り扱うことがないように、絶えず注意しなければなりません。このことは、あのリンゴが地面に落下したのがあたかもリンゴの動機に依存していたとか、地面に落下する価値があるかどうかや、地面がリンゴに落下して欲しいと思ったかどうかに依存したり、また、リンゴが地球の中心からの距離を誤算したことに依存していたようなものなのです」(1938年7月16日)
これは、ニュートンに傾倒していたケインズらしい比喩だといえる。経済学はモラル・サイエンスであって、自然科学ではない。だから、落下するリンゴも、人間の動機や価値判断、期待、誤算など様々な要素に依存している。ロシェは、ニュートンとケインズのリンゴの違いを思い出させるために、実際にリンゴを落としてみせる。
あるいは、こうもいえる。財務相たちの計画は、ニュートンのリンゴであり、割れるワイングラスは発展途上国の運命を象徴している。ある事情で心境が変化したロシェは、もはや自分の力で計画を阻止することはできないが、心の奥でニュートンのリンゴがケインズのそれに変わることを望んでいる。リーマン・ショックさえも予測し、神のように振る舞ってきた彼は、リンゴを落としたあとで、このように挨拶を締め括る。
「善かれ悪しかれ私たちは神ではない。自分たちの行動のすべての結果を予測することはできません。健康を祝し!」
この挨拶には、ロシェが告解を望む動機が垣間見える。彼は告解を通して、リンゴをサルスに委ねるのだ。
傲慢な天才エコノミストか否か
そこで注目したいのが、もうひとつのポイントだ。ロシェはサルスの著書を読んでいて、彼を会議に招待した。彼の死後、部屋からサルスの著書が見つかり、「自分に死をもたらしても他者を救うための行為ならば自殺ではない」という記述にアンダーラインが引かれていたことがわかる。
それは、ロシェが死んでも、彼が最後に何を成したかがまだ決定していないことを意味する。サルスが沈黙を守れば、ロシェは傲慢な天才エコノミストで終わるが、何らかの行動に出れば、「他者を救うための行為」を成し遂げる可能性が残されている。しかし、ロシェは告解はしたものの、心の底から悔い改めていたとはいいがたい。それでもサルスが行動に出れば、彼に赦しを与えることになる。そこから複雑な葛藤が生まれる。
アンドーは、そんなロシェとサルスの関係に、絶妙のひねりで終止符を打つ。この映画の導入部でロシェは、ある数式を見つめている。ケインズのモラル・サイエンスとは相容れないであろうその数式は、果たしてどんな役割を果たすのか。
ロシェの死後、一枚岩に見えた財務相の間には不協和音が生じる。彼らのなかには、計画に反対でありながら妥協した大臣もいた。しかしそれでも、強硬派の牙城は揺るぎそうにない。そこで切り札になるのが、ロシェがサルスに託した数式だ。強硬派は、ケインズの理想など眼中にないが、数式や数字にはめっぽう弱く、簡単に動かされる。
この映画では、そんな数式が切り札になって、ニュートンのリンゴがケインズのリンゴに変わるところに、痛烈な皮肉が込められている。
《参照/引用文献》
『ケインズ全集 第14巻』ドナルド・モグリッジ編 清水啓典・柿原和夫・細谷圭訳(東洋経済新報社、2016年)
『修道士は沈黙する』
公開:2018年3月17日(土)よりBunkamuraル・シネマほか全国順次ロードショー
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