MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(6完)─正統派との共存可能性
MMTの政府債務把握がはらむ「矛盾」
正統派から見たMMTのもう一つの大きな問題点は、政府債務についての把握にある。MMTは常々、政府の債務は民間にとっての純資産であることを強調する。これは正統派にとっては、政府と民間が共に非リカーディアンであることを意味する。というのは、もし政府と民間がリカーディアンであったとすれば、民間の持つ資産は同時に将来の増税によって確実に返済を強制される負債ということになり、ロバート・バローが述べる通り「国債は純資産ではない」ことになるからである。
正統派の発想では、政府と民間が共に非リカーディアンであることが想定されている場合には、赤字財政政策の無効性を意味する「リカード=バローの中立命題」は成立せず、政府債務の拡大によって人々の支出が拡大し、その結果として物価が上昇するはずである。しかしながら、政府債務は単に過去の財政赤字の帳簿上の記録でしかないと考えるMMTにおいては、政府債務の拡大は、財政破綻の可能性の高まりといった「悪いこと」をもたらさない反面で、人々の支出を拡大させるという「良い効果」も持たない。それが、MMTがFTPLやヘリコプター・マネー政策とは異なるということの意味である。
つまり、MMTの世界は、その前提が非リカーディアンであるにもかかわらず、そのふるまいはまったくリカーディアンなのである。これは、明らかに矛盾している。正統派から見れば、その矛盾を解消するための方法は一つしかない。それは、政府の通時的予算制約の明示である。
重要なのは、この政府予算制約の設定は、財政の長期的持続可能性に留意するものではあっても、「不況下の増税」的な緊縮主義を含意するわけではまったくないという点にある。正統派的には、財政の長期的持続可能性には通貨発行益(シニョレッジ)も考慮する必要があるから、通貨主権を持つ国の政府予算制約はより緩やかになる。それは、不況期における循環的財政赤字の許容度や持続性がより高まることを意味する。この点の把握は、ソブリン通貨という概念こそ用いていないものの、MMTと軌を一にしている。他方では、上述のように、非リカーディアンである限り、そのように許容された財政赤字そのものにも支出拡大効果が期待できる。要するに、不況下の増税に反対する反緊縮主義は、政府の通時的予算制約を想定しても十分に成り立つのである。
財政の長期的持続可能性を考える場合にもう一つ重要な点は、各国における将来的な徴税可能性である。仮に完全な通貨主権を持つ国であったとしても、将来の現実的な徴税能力以上に政府債務が拡大した場合には、ハイパー・インフレとは言わないまでも、FTPL的な物価調整プロセスが望ましくない形で生じる可能性は存在する。そのような可能性は先進諸国ではまったく考えられないが、税金逃れが横行しているとか徴税制度が十分に整備されてないといった状況が稀ではない新興諸国では、一定の現実味を持っている。本来であれば、「ソブリン通貨の裏付けは政府の徴税にある」という把握から出発するMMTこそがこの課題に正面から取り組むべきであるが、政府債務は良くも悪くも何の意味も持たないとするMMTの赤字フクロウ派的な認識がそれを妨げているように思われる。
財政主導初期ケインズ主義の再興としてのMMT
現状のMMTの経済学派的特質を一言で表現すれば、「モズラーの発見を媒介とした財政主導初期ケインズ主義の再興」ということになるであろう。その初期ケインズ主義が何であったのかは、マネタリズムによるケインズ経済学批判が学界を席巻しつつあった1960年代後末に、その潮流を横目で見ながら、ケインズ派内部からの自己改革を唱えて旧来の"ケインジアン"経済学を根底的に批判したアクセル・レイヨンフーブッドによって、以下のように描写されている。
金融政策の有効性に対するケインズの悲観論と、財政政策の慫慂は『一般理論』の特徴点ではあるが、これが多くの初期"ケインジアン"の手により、単純化されたドグマに作りあげられてしまった。つまり景気後退期における金融政策はまったく有効でなく、一方財政政策は景気の加熱、停滞どちらにも有効であり、かつマクロ経済問題に対する唯一の処方箋である、とされたのである。(Leijonhufvud, A.[1968] On Keynesian Economics and the Economics of Keynes: A Study in Monetary Theory, p.158)
このレイヨンフーブッドの『ケインジアンの経済学とケインズの経済学』で詳述されているように、初期ケインジアンたちは、金融政策の無効性と財政政策の有効性をまさにドグマチックに信奉していた。その根拠の一つとなっていたが、オックスフォード大学グループによる1930年代の実態調査などを受けて浸透した、企業家の投資に関する意志決定は金利からはほとんど影響を受けないという「投資の利子弾力性悲観論」である。このレイヨンフーブッドとは逆に、レイはModern Money Theory, p.282で、「この弾力性悲観論こそが"ケインジアン"とは区別されたケインズの真の後継者たちの認識である」と述べているのであるから、レイが初期ケインジアンたちの立場を継承していることは明らかである。
MMT派による「新しい貨幣的合意」という言葉が示唆しているように、その後のケインズ主義は、財政政策重視から金融政策重視へとその政策戦略を大きく転換した。それは、ミクロ的基礎を持たないケインズ型消費関数に基づく45度線モデル的な財政乗数理論や、それに依拠する財政一辺倒主義が、ケインジアン内部からも粗野なケインズ主義(crude Keynesianism)と批判されるようになった状況を反映している。金融政策に関しては逆に、資産市場の一般均衡分析、マンデル=フレミング・モデル、合理的期待形成理論、貨幣についてのクレジット・ビュー、ファイナンシャル・アクセラレーターの理論等々を通じて、資産チャネル、為替チャネル、期待チャネル、信用チャネルなどのさまざまな波及経路が理論的に確認されていった。その結果、かつての金融政策無効論はまったく過去のものとなった。そこではもはや、金利チャネルは金融政策が実体経済に影響を与える数多くの経路のうちの一つでしかなくなったのである。ちなみに、拙著『世界は危機を克服する』(東洋経済新報社)は、初期の財政政策重視ケインズ主義を「ケインズ主義Ⅰ」、その後の金融政策重視のそれを「ケインズ主義Ⅱ」と名付けて区別している。
こうした現代マクロ経済学の展開から見れば、現状のMMTは、旧ケインジアンのマネタリズム批判から分岐した、マクロ経済学における一つのガラパゴス的展開に他ならない。既述のように、ポスト・ケインジアンの内生的貨幣供給論は、ニコラス・カルドアが1970年代から80年代初頭にかけて展開していたマネタリズム批判に始まる。端的に言えば、ポスト・ケインジアンたちは、マネタリズム批判を契機として、初期ケインジアン由来の金融政策無効論を内生的貨幣供給という把握によって再構築する方向に舵を切り、ニュー・ケインジアンも含むマクロ経済学の主流から離れていったのである。その切り離された流れが、1990年代に例のモズラーの発見と出会って生み出されたのが、現在のMMTである。
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