MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(5)─政府予算制約の無用論と有用論
政府の財政運営に関するタカ派、ハト派、そしてフクロウ派
MMTは、財政に関する専門家のスタンスを、以下のように3分類する。
われわれは適切な財政戦略に関して、(a)赤字タカ派、(b)赤字ハト派、(c)赤字フクロウ派という三つの異なる視点を区別することができる。このカテゴリ(c)は、アメリカUMKCのMMT派エコノミスト、ステファニー・ケルトンによって追加された。
一般には1会計年で政府収入と支出を正確に一致させることは難しいと認識されているが、赤字タカ派は、政府が財政収支の均衡あるいは黒字さえ達成するよう努力することを求める。したがって、均衡財政からの逸脱が発生した場合、政府は常にそのような不均衡に対応する必要が生じる。それは、ある年に赤字が発生した場合、政府はその翌年に支出削減あるいは増税を行い、黒字を作ることでそれを補うよう努めるべきことを意味する。
赤字ハト派は、政府は財政収支均衡を景気循環過程の中で達成することを目指すべきであり、景気後退期は赤字を創出し、拡大期の余剰を相殺すべきだと考えている。つまり、政府は民間部門の支出の変動を相殺するために、自らの財政能力を反循環的な政策手段として積極的に使用すべきということになる。たとえば、赤字ハト派は世界大不況期において、主要な西側諸国の低迷した経済を刺激するために赤字が必要だと主張した。彼らの見解によれば、均衡財政に向かうべき時は、回復が堅調に進行し、税収が増加し始めた後においてのみ訪れる。
赤字フクロウ派は、機能的財政の原理に基づいており、これらとはまったく異なる立場にある。 彼らにとっては、主権政府の財政的成果は、政策立案の有用な目標ではない。それは、 政策指針という意味では機能的ではない。そうではなく、政策は、完全雇用、物価の安定、貧困の緩和、所得不平等の減少、財政の安定、環境の持続可能性、全体的な生活水準などの、経済的に重要な課題の達成を目標とすべきなのである。(Macroeconomics, pp.333-4)
このタカ派、ハト派、フクロウ派というMMTの3分類は、財政に対する専門家たちの立場を区別するのに確かに有用である。赤字タカ派の歴史的な代表例は、政府財政赤字は単に民間投資のクラウド・アウトをもたらすにすぎないという、ケインズがかつて批判した大蔵省見解であろう。反ケインズ派の財政学者、ジェームズ・ブキャナンなどに代表されるように、こうした考え方は、ケインズ経済学が一般的に受け入れられて以降も根強く受け継がれていた。ちなみに、ケインズが大蔵省見解を批判したのは、民間投資のクラウド・アウトは不完全雇用経済では必ずしも成立しないからである。
それに対して、赤字ハト派とは、財政均衡は景気循環の過程で達成されればそれで十分であり、不況期の財政赤字は積極的に許容されるべきだという立場である。それはまた、「縮小させる必要がある財政赤字とは、不況期に必然的に生じる循環的赤字ではなく、好況期においても残っている構造的赤字である」という、財政運営の基本的指針を導き出す。この意味での循環的な赤字財政主義を最初に提起したのは、ヴィクセルを引き継ぐストックホルム学派を代表するグンナー・ミュルダールであったとされている。この赤字ハト派のカテゴリには、おそらく過去から現在に至る新旧ケインジアンの大部分が含まれる。
MMT派は、自らの立場を単に赤字タカ派のみではなくハト派からも区別し、それを赤字フクロウ派と名付けた。彼らは要するに、赤字ハト派とは異なり、「政府財政は景気循環を通じて均衡する必要すらない」と考えているのである。MMT派が常々強調しているように、彼らのこうした考え方は、アバ・ラーナーの機能的財政論に発している。確かに、ラーナーは『統制の経済学』(1944年)第24章で、「政府財政に均衡させられるべき何らかの理由があるとすれば、それは、財政赤字は悪いことだという人々が持つ偏見あるいはイデオロギーの存在のみである」と述べていた。
政府財政をめぐるリカーディアンと非リカーディアン
この赤字ハト派の循環的赤字財政主義が典型であるが、初期のケインジアンたちは、景気循環の全体を通じた財政収支均衡を漠然と想定してはいたが、政府の通時的予算制約を明示的に考慮はしていなかった。それは、IS-LM分析が示しているように、ケインズ『一般理論』で用いられていた手法が、経済をある特定の時点で切り取った静学的分析だったからである。そこでは、フローとしての政府赤字財政支出の役割は考察できても、ストックとしての政府債務の役割は考察できない。
旧ケインジアンが政府の通時的予算制約に配慮する必要に迫られるようになったのは、新しい古典派マクロ経済学の創始者の一人であったロバート・バローによる1974年の論文「政府国債は純資産なのか?」によってであろう。そのタイトルが示唆しているように、バロー論文は、「政府の赤字財政支出の結果としての国債は、民間の資産のように扱われているが、民間に対する将来の増税によって返済されるべきものである以上、必ずしも資産とは見なされない」ことを論じている。それは、「民間の資産は政府の債務によって生み出される」というMMTの視角とは、まさに対極にある。
このバローの推論は、「政府の債務は家計の債務と同様に、将来のある時点では必ず返済される」という前提に基づく。これは、政府の予算制約が通時的には必ず満たされることを意味する。この場合、政府支出を増税で賄うことと国債を発行して賄うことには、国民全体からすれば差はまったくない。というのは、経済学的には、ある金額の支払いを今行っても100年後に行っても、割引現在価値で引き戻せば同じだからである。
つまり、政府の通時的予算制約が満たされるという前提の下では、赤字財政の効果は増税と同じになる可能性がある。上述のブキャナンは、このバロー論文へのコメントの中で、同様な主張をリカードウが150年以上も前に展開していたことを指摘した。それ以降、この赤字財政政策の無効命題は「リカード=バローの等価定理」あるいは「リカード=バローの中立命題」と呼ばれるようになった。
このバローの議論は、赤字財政主義を信奉するケインジアンたちに大きな難題を突きつけた。というのは、もしこの議論が正しければ、民間資産と見なされている国債は同時に民間債務でもあるということになり、減税政策などによって政府が財政赤字を作ることそれ自体には何のマクロ的効果もないことになるからである。
ケインジアンにとっては幸いなことに、このバローの議論は、確かに一つの可能性ではあったが、必ずしも現実的ではなかった。まず、存命中に返済することが前提である個人の債務とは異なり、増税による債務の返済は「先延ばし」が可能である。それは、現世代の資産である国債の少なくとも一部は、現世代にとっては必ずしも返済する必要のない「純資産」であることを意味する。バローの議論の意義は、そのことも含めて、経済学者たちが政府の通時的予算制約の持つ政策的意味を考察する一大契機となった点にある。
このバローの指摘以降、経済学においては、財政政策のあり方に関して「リカーディアン」と「非リカーディアン」という区分が用いられるようになった。赤字国債を将来の増税で賄おうとする政府はリカーディアン政府、それをしない政府は非リカーディアン政府と呼ばれる。また、政府がリカーディアンであると考え、将来必ず増税が行われるので保有する国債を純資産の増加と見なすことはなく、消費計画も変更しない家計は、リカーディアン家計と呼ばれる。逆に、将来必ずしも増税が行われることはなく、国債を純資産の増加と見なして消費支出を増やす家計は、非リカーディアン家計と呼ばれる。
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