財政負担問題はなぜ誤解され続けるのか
そうした中で、増税論にとっての最後に残された切り札のような役割を果たしてきたのが、政府債務の将来世代負担論である。この議論が増税論にとって好都合なのは、経済実態がどのように推移しようとも、それなりの大きさの政府債務が存在し続けている限り、この議論の「説得力」が失われることはないという点にある。たとえば、現実の財政破綻リスクは、市場に現れる国債金利やそのリスク・プレミアムなどによって容易に検証あるいは反証可能である。それに対して、政府債務の将来世代負担論には、そのような簡単な検証手段は存在しない。財政負担論が増税の論拠に利用され続けるのは、まさしくそのためである。
上の「建議」が典型的であるように、増税派はしばしば、政府債務それ自体を、「過去から現在に至る世代による将来世代からの収奪」であるかのように論じる。そこでは、放蕩の末に政府債務を将来世代に押し付けた平成という時代、あるいはその時代を生きた人々そのものが、意見表明ができない将来の人々から「財政資源」を奪い取った存在として、道徳的に断罪される。さらには、未だに増税を拒否し続けている現世代のすべてが、この「将来世代からの収奪」に加担する存在として、その罪過を指弾され続けるのである。
政治的プロパガンダか、それとも経済学的知見か
このように、増税に真剣に取り組もうとしない「我々」に対する「建議」の批判は手厳しい。それでは、今を生きるわれわれは本当に、将来の人々から「財政資源」を奪い取り続けていることに対して、常に負い目を感じながら生きていくしかないのであろうか。
その答えは明確に否である。というのは、ある政策的な立場の人々が、仮に「政府の財政赤字はすべて将来世代の負担となる」かのように述べているとすれば、それは彼らが、経済学的な政策命題ではなく、一つの明白に誤った政治的プロパガンダを表明しているにすぎないからである。
実際のところ、「財政資源の枯渇」という「建議」の表現がいったい何を意味するのかは、まったく明確ではない。しかしそれを読んだ人々は、おそらく確実に、政府債務=将来世代負担という「命題」がそこでの議論の前提となっているという印象を持つであろう。その意味では、この「建議」の内容は、経済学的知見に基づく政策提言というよりは、政治的プロパガンダにより近いのである。
それでは、この赤字財政の負担問題に関する「経済学的知見」とは何か。筆者は実は、本コラム「政府債務はどこまで将来世代の負担なのか」(2017年07月20日付)において、その課題に対する筆者なりの見方を既に明らかにしている。とはいえ、筆者自身がそれを「経済学的知見」を代表するものであるかのように喧伝するわけにもいかないであろう。というよりも、増税派の人々にとっては、逆にそれこそが「反増税派によるプロパガンダ」のように見えているはずである。
そこで今回は、前回とはまったく異なったアプローチを試みることにする。それは、経済学者たちがこれまでその問題をどう論じてきたかを確認してみるというやり方である。しかし、一口に経済学者といっても、その政策的な立場は千差万別である(そもそも「建議」の執筆者のほとんども経済学者である)。そこでここでは、より簡易な手法として、長きにわたって幅広く受け入れられてきた経済学の教科書で、この赤字財政の負担問題がどのように論じられていたのかを確認することを通じて、この問題に関する「経済学的知見」を確かめてみることにしよう。
ここでの具体的な吟味の対象は、『サムエルソン経済学』(都留重人訳、1977年、岩波書店)である。これは、Paul A. Samuelson, Economics, 10th edition の邦訳である。Samuelsonの Economicsは、1948年に初版が発刊されて以来、2009年に発刊された第19版(William D. Nordhausによる改訂版)に至るまで、各国各世代の経済学初学者に読み継がれてきた、経済学の最も代表的な教科書である。それは、41ヶ国語に翻訳され、合計で400万部以上を販売するなど、何十年にもわたりベストセラーとして経済学教科書の世界に君臨してきた(WikipediaのEconomics_(textbook)による)。
この本の邦訳にもいくつかの版があるが、筆者の手許にあるのは、1977年に出版された「原書第10版」の翻訳である。筆者がそれを所有しているのは、それが大学生の頃の教養課程の必修講義「経済学」のテキストに指定されていたからである。ちなみに、その講義は、日本の計量経済学の草分けの一人であった内田忠夫教授によるものであった。1970年代後半に大学に入学した筆者に近い世代では、この本によって初めて「近代経済学」を学んだという経済学部生も多かったはずである。
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