コラム

雇用が回復しても賃金が上がらない理由

2017年08月17日(木)15時30分

sara_winter-istock

<現在の日本経済は、一定の景気回復によって雇用は改善したにもかかわらず、未だ十分な名目賃金上昇が実現されていない。その理由は何か。そして、今後の経済政策で重要なことは何か>

日本経済は現在、深刻な人手不足に直面しているかのように言われている。確かに、今年に入って、完全失業率はバブルが崩壊して以来久しく見ることが出来なかった2%台にまで低下した。有効求人倍率にいたっては、バブル期のそれを飛び越えて、高度成長の余韻が残っていた1970年代初頭の水準にまで改善した。

そうした中で、パートやアルバイトなどの非正規雇用の賃金は、明確に上昇し始めている。しかしながら、正規雇用も含めた就業者全体の賃金上昇トレンドは、未だにきわめて弱々しい。

日本の就業者の平均的な名目賃金すなわち額面上の賃金は、バブル崩壊後もしばらくは上昇し続けていたが、消費税増税を発端とする1997年からの経済危機を契機に下落し続けるようになった。さらに2009年頃には、リーマン・ショックに始まる世界経済危機の影響を受けて急落した。日本の名目賃金がようやくわずかながら上向きのトレンドに転じたのは、アベノミクスが始まった2013年以降のことにすぎない。

こうした低い名目賃金上昇率は、日本経済の物価上昇率が未だに低いことの原因ともなっている。政府・日銀は、第2次安倍政権成立直後の2013年1月に、2%のインフレ目標を掲げた。しかしその目標は、4年半以上経過した現在も実現されていない。それは何よりも、名目賃金の上昇率が未だに低いからである。

物価が継続的に上昇するためには、その物価以上に賃金が上昇しなければならない。というのは、物価が上がったにもかかわらず賃金が上昇しないということになれば、賃金上昇から物価上昇を差し引いた実質賃金は下落することになり、人々は継続的に貧しくなってしまうからである。

経済学的には、賃金は労働の「限界生産性」によって決まる。これは、十分な労働需要が維持されている限り、実質賃金は生産性の上昇とともに上がり続けることを意味する。現在のAIなどが示しているように、労働生産性は一般に、技術革新があれば必ず上がっていくものである。その結果として生じる実質賃金の上昇が、2%のインフレ経済の中で実現されるためには、少なくとも2%以上の名目賃金の上昇が必要なのである。

その意味で、現在の日本経済は、一定の景気回復によって雇用は改善したにもかかわらず、未だ十分な名目賃金上昇が実現されていないという状況にある。本稿では、その理由は何かを、日本のこれまでの賃金動向も含めて考察し、そこから導き出されるマクロ政策的な含意を論じる。

不況の初期段階における賃金動向

名目賃金と物価は通常、景気が良い時には上昇し、悪い時には下落すると想定される。これは、フィリップス・カーブとして知られている経験的なデータから裏付けられる。フィリップス・カーブには、失業率とインフレ率との相関関係を示した「物価版」のそれと、失業率と賃金上昇率との相関関係を示した「賃金版」のそれとがある。この両者はともに、おおむね「右下がり」の曲線になることが知られている。これは、景気が良い時にはGDPギャップが縮小することで失業率が低下すると同時に物価と賃金の上昇率が上がり、景気が悪い時にはその逆になるためである。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

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