コラム

雇用が回復しても賃金が上がらない理由

2017年08月17日(木)15時30分

ただし、こうした単純な関係は、あくまでも景気あるいは失業率と「名目賃金」との間にのみ成立するものである。景気循環の過程における「実質賃金」の動きは、通常はより複雑である。

図1 日本の名目賃金指数、消費者物価指数、および実質賃金指数(1990〜2016年)
nogchi1.jpg

(データ出所)厚生労働省、総務省統計局の各ホームページ

図1は、1990年を100 とした日本の名目賃金指数、消費者物価指数、実質賃金指数(=名目賃金指数/消費者物価指数)である。1990年代の日本経済では、バブルの崩壊による景気悪化によって、失業率の一貫した上昇が生じた。にもかかわらず、日本の実質賃金は、1997年頃まで高い率で上昇し続けた。それは、不況によってインフレ率が低下する中でも、名目賃金の上昇率がそれほど低下しなかったからである。

通常の賃金版フィリップス・カーブによれば、景気が悪化して失業率が上昇すれば、名目賃金の上昇率は低下する。実際、図1の名目賃金指数の「傾き」から判断できるように、1990年から91年には3〜4%あった名目賃金の上昇率が、1993年以降は1〜2%にまで低下している。しかしながら、名目賃金の額面それ自体は、依然として上昇し続けている。それは、労働市場には「名目賃金の下方硬直性」が存在するためである。

一般に、インフレが定常化されているような経済においては、名目賃金の上昇もまた制度的に慣例化される傾向がある。というのは、そうでないと実質賃金の適正な上昇が実現できないからである。

たとえば、日本では長年、春闘と呼ばれる労使交渉を通じた年々の賃上げが、「ベア」と呼ばれる一律引き上げとして制度化されていた。このベアの上げ幅は、企業収益が良ければ上がり悪ければ下がるというように、その時々の景況や個別企業の経営状況に依存して変動した。しかし、経営が悪化してベアの上げ幅がゼロになることはあっても、余程のことがない限りマイナスにはならなかった。それは、ケインズが『一般理論』第2章で指摘したように、労働者は一般に、実質賃金よりも名目賃金の低下に対してより強く抵抗するからである。その結果として生じるのが、名目賃金の下方硬直性である。

各企業の名目賃金改訂に「ゼロ」という下限がある場合、経済全体の平均的な名目賃金上昇率は、不況期でもマイナスにはならない。というのは、慣例としての賃金ベアを維持する企業は、数は減っていくだろうとはいえ、不況期でもそれなりに存在するからである。

つまり、1997年頃までの日本経済では、不況の中で名目賃金上昇率は低下したとはいえ、それがマイナスになることはなかった。むしろ、名目賃金の額自体は上昇し続けた。他方で、不況によってインフレ率は下落し、それはやがてほぼゼロとなった。その結果が、図1が示すような実質賃金上昇率の高止まりであった。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

パラマウント、WBD買収へ 第3四半期完了の見通し

ビジネス

米国株式市場=下落、ダウ521ドル安 イラン緊迫や

ビジネス

NY外為市場=ドル軟調、155円台後半 イラン情勢

ワールド

トランプ氏、アンソロピック技術の使用停止を指示 全
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:日本人が知らない AI金融の最前線
特集:日本人が知らない AI金融の最前線
2026年3月 3日号(2/25発売)

フィンテックの進化と普及で、金融はもっと高速に、もっとカジュアルに

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    中国、4隻目の空母は原子力艦か──世界3番目の原子力空母保有国へ
  • 2
    見事なカンフーを見せた中国ヒト型ロボットのからくりとリスク
  • 3
    中国で今まで発見されたことがないような恐竜の化石が発見される...ほかの恐竜にない「特徴」とは
  • 4
    ウクライナが国産ミサイル「フラミンゴ」でロシア軍…
  • 5
    がん治療の限界を突破する「細菌兵器」は、がんを「…
  • 6
    アルコールは血糖値を下げる...「脳と血管を守る」医…
  • 7
    トランプがイランを攻撃する日
  • 8
    「努力が未来を重くするなら、壊せばいい」──YOSHIKI…
  • 9
    住宅の4~5割が空き家になる地域も......今後30年で…
  • 10
    少女買春に加え、国家機密の横流しまで...アンドルー…
  • 1
    アルコールは血糖値を下げる...「脳と血管を守る」医師がすすめる意外な健康習慣
  • 2
    「水道水」が筋トレの成果を左右する...私たちの体には濾過・吸収する力が備わっている
  • 3
    村瀬心椛は「トップでなければおかしい」...スノボの謎判定に「怒りの鉄拳」、木俣椋真の1980には「ぼやき」も
  • 4
    見事なカンフーを見せた中国ヒト型ロボットのからく…
  • 5
    少女買春に加え、国家機密の横流しまで...アンドルー…
  • 6
    命は長し、働け女たち――88歳「働くばあさん」が説く…
  • 7
    「#ジェームズ・ボンドを忘れろ」――MI6初の女性長官…
  • 8
    カビが植物に感染するメカニズムに新発見、硬い表面…
  • 9
    中国、4隻目の空母は原子力艦か──世界3番目の原子力…
  • 10
    米国の中国依存が低下、台湾からの輸入が上回る
  • 1
    ウクライナ戦闘機「F-16」がロシア軍「シャヘド」を空中爆破...地上から撮影の「レア映像」を公開
  • 2
    【クイズ】致死率50~75%...インドで感染拡大「ニパウイルス」の感染源となる動物は?
  • 3
    高市積極財政にアメリカが慌てる理由
  • 4
    台湾侵攻「失敗」の大きすぎる代償
  • 5
    「最恐」恐竜T・レックスの定説を覆す新研究が
  • 6
    イースター島の先住民から資源を略奪、島を「生きた…
  • 7
    アルコールは血糖値を下げる...「脳と血管を守る」医…
  • 8
    「ヘル・コリア」から日本へ7万人 ── 大企業の高給より…
  • 9
    中国、パナマ運河の港湾喪失でパナマに報復──トラン…
  • 10
    命は長し、働け女たち――88歳「働くばあさん」が説く…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story