コラム

雇用が回復しても賃金が上がらない理由

2017年08月17日(木)15時30分

このように、不況の初期段階では、実質賃金は高い上昇率を維持することが多い。これは、不況による総需要の減少が、下方硬直性を持つ賃金よりも、それを持たない物価をより大きく引き下げるためである。この場合の実質賃金上昇は、当然ながら、生産性上昇や労働需要拡大によって生じる完全雇用時の実質賃金上昇とは性格が異なる。

この不況下の実質賃金上昇に直面した企業は、解雇や新規採用の縮小によって雇用をより厳しく抑制しようとする。その結果、経済全体の失業率はより一層上昇する。それが、1997年頃までの日本経済の状況であった。

分水嶺としての1997年経済危機

戦後の先進諸国では、財政政策と金融政策を用いたケインズ的な総需要管理が制度化されたため、1930年代の大恐慌期のような深くて長い景気低迷は、少なくとも2008年のリーマン・ショックまでは生じることがなかった。それゆえに、名目賃金が大きく下落するという状況が長期にわたって続くこともなかった。しかし、1997年からの日本経済では、それが生じたのである。

日本経済は1996年頃に、ようやくバブル崩壊後の不況からの回復過程に入ったかのように見えた。しかし、1997年4月の消費税増税を発端として、景気が再び悪化し始めた。そして、1997年秋には戦後最大の金融危機が生じ、多くの企業や金融機関が破綻した。その結果、1996年には改善のきざしを見せていた雇用状況が再び悪化し、その後の失業率は2000年代初頭まで一方的に上昇し続けた。

そこで生じたのが、戦後のとりわけ高度成長期を通じて日本企業の間で一般化していた雇用慣行の空洞化であった。バブル崩壊以降の長期にわたる収益低下に耐えかねて、多くの企業が従来の慣例であった年功に応じた定期昇給を放棄し、成果主義などの導入を模索するようになった。その目的は明らかに、賃金の切り下げにあった。

日本企業はさらに、賃金コスト全体の圧縮のために、平均賃金の高い正規雇用から、それが低い非正規雇用への置き換えを積極化させた。就業者に占める非正規雇用の比率は、1990年代前半には20%程度がほぼ維持されていた。しかし、1997年の経済危機以降は、正規雇用の絶対数が減少し、それが非正規に置き換えられていくようになる。そしてそれによって、就業者全体に占める非正規雇用比率は断続的に上昇し続けるようになる。

春闘のベアもまた、1997年以降は一気に形骸化していく。2000年代になると、デフレを背景として、ベアの「見送り」や「停止」が一般化する。そして、リーマン・ショック後の2009年には、遂にベアが完全放棄されるに至るのである。

こうして生じた雇用制度の変化の本質は、要するに企業による賃金コストの圧縮であった。日本企業はこの頃には、単に不況によって販売が減少するだけでなく、デフレによって収益の額自体が縮小する時代に入っていた。そうした状況下では、企業がバブル期以前のようにベアや定期昇給を通じて労働者の名目賃金を年々引き上げ続けるなどは、とうてい不可能であった。

つまり、日本経済は1997年の経済危機以降、名目賃金の下方硬直性というアンカーが失われた、賃金が恒常的に下落し続ける時代に入ったのである。その下落幅は、深刻化していた物価下落をも上回るものであった。そのため、それまでは上昇し続けていた実質賃金も、遂には下落していくことになったのである。

これは、日本ではこの時期以降、単により多くの人々が職を失っただけでなく、運良く職を得た人々も時を経るごとに実質的により貧しくなっていったことを意味する。その責はすべて、先走った消費税増税とデフレ許容的な金融政策という、この時期の政府と日銀による歪んだマクロ経済政策運営に求められるべきである。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

対ロ軍事支援行った企業、ウクライナ復興から排除すべ

ワールド

米新学期商戦、今年の支出は減少か 関税などで予算圧

ビジネス

テマセク、欧州株を有望視 バリュエーション低下で投

ビジネス

イタリア鉱工業生産、5月は前月比0.7%減に反転 
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:大森元貴「言葉の力」
特集:大森元貴「言葉の力」
2025年7月15日号(7/ 8発売)

時代を映すアーティスト・大森元貴の「言葉の力」の源泉にロングインタビューで迫る

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、ネットが感動の渦
  • 2
    トランプ関税と財政の無茶ぶりに投資家もうんざり、「強いドルは終わった」
  • 3
    シャーロット王女の「ロイヤル・ボス」ぶりが話題に...「曾祖母エリザベス女王の生き写し」
  • 4
    日本企業の「夢の電池」技術を中国スパイが流出...AP…
  • 5
    アメリカを「好きな国・嫌いな国」ランキング...日本…
  • 6
    名古屋が中国からのフェンタニル密輸の中継拠点に?…
  • 7
    アメリカの保守派はどうして温暖化理論を信じないの…
  • 8
    【クイズ】日本から密輸?...鎮痛剤「フェンタニル」…
  • 9
    犯罪者に狙われる家の「共通点」とは? 広域強盗事…
  • 10
    ハメネイの側近がトランプ「暗殺」の脅迫?「別荘で…
  • 1
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...父親も飛び込み大惨事に、一体何が起きたのか?
  • 2
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、ネットが感動の渦
  • 3
    日本企業の「夢の電池」技術を中国スパイが流出...APB「乗っ取り」騒動、日本に欠けていたものは?
  • 4
    後ろの川に...婚約成立シーンを記録したカップルの幸…
  • 5
    シャーロット王女の「ロイヤル・ボス」ぶりが話題に..…
  • 6
    「やらかした顔」がすべてを物語る...反省中のワンコ…
  • 7
    「本物の強さは、股関節と脚に宿る」...伝説の「元囚…
  • 8
    「飛行機内が臭い...」 原因はまさかの「座席の下」…
  • 9
    為末大×TAKUMI──2人のプロが語る「スポーツとお金」 …
  • 10
    職場でのいじめ・パワハラで自死に追いやられた21歳…
  • 1
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 2
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 3
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事故...「緊迫の救護シーン」を警官が記録
  • 4
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 5
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 6
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 7
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 8
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 9
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 10
    「うちの赤ちゃんは一人じゃない」母親がカメラ越し…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story