コラム

黒田日銀が物価目標達成を延期した真の理由

2016年11月25日(金)18時10分

ooyoo-iStock

<黒田日銀は、完全雇用の実現という最終的な政策目標を、約束の期限内に達成できなかった。しかし、それは「失業を減らして雇用と所得を拡大させる余地が事前の想定以上に残されていることが明らかになった」という、よい意味で想定外の事態だった>

 筆者は11月4日付けの拙稿「黒田日銀の異次元金融緩和は『失敗』したのか」の最後で、「異次元金融緩和政策が成功していることは明白である。唯一問題があるとすれば、それは、完全雇用の実現という最終的な政策目標を、約束の期限内に達成できなかった点のみにある。それをどう考えるべきかについては、稿を改めて論じたい」と述べた。本稿は、その目的を果たすためのものである。

本来的に困難な不確実性下の「期限の約束」

 日銀に限らず、現代世界の中央銀行の多くは、インフレ目標という枠組みを用いて金融政策を運営している。それは、「消費者物価指数のような何らかの物価指標の上昇率に2%程度の目標を設け、政策金利の操作や量的緩和といった手段を用いて、その目標の達成および維持を図る」というものである。

 中央銀行は一般的には、インフレ率が低下しがちな不況期には金融緩和を行ってインフレ率を引き上げ、逆に景気が過熱してインフレ率が上振れするようであれば、金融引き締めを行ってインフレ率を引き下げようとする。しかし、その金融政策の効果が十分に浸透し、現実の物価に現れるまでには、それなりの時間がかかる。金融政策の変更は、金利や為替や金融資産価格にはほぼ瞬時に反映されるが、それらが実体経済を刺激するまでのチャネルは、必ずしも迅速に機能するわけではないからである。

 そのことは、リーマン・ショック以降の世界大不況の中での各国のマクロ経済状況からも明らかである。その間、FRB(米連邦準備銀行)は3度にわたる量的緩和政策(QE1〜QE3)、ECB(欧州中央銀行)はマイナス金利政策という、未曾有の金融緩和を実行した。にもかかわらず、2009年から2016年現在までの両地域のインフレ率は、2011年前後に一時的に上振れした以外、一貫して2%を下回った。FRBは、2015年12月以降、量的緩和を解除して政策金利を引き上げる局面に入ったが、それは現実のインフレ率がようやく目標に近づいたからである。しかし、その利上げペースは依然としてきわめて緩慢である。

 ここで重要なのは、FRBにせよECBにせよ、確かに目標インフレ率を達成することには強くコミットしているが、黒田日銀のように「それをいつまでに達成する」という期限の約束を行ったことは一度もない、という点である。それは、金融政策が最終的に物価にいたるまでのタイム・ラグを考えれば、その間に事前には予想できなかった外生的なショックが生じることが不可避だからである。実際、もし2010年のギリシャ・ショックがなければ、世界経済の回復も、また各国のインフレ目標の達成も、ここまで遅れることはなかったであろう。FRBとECBは確かに、そうした状況の変化に対応し、金融緩和を段階的に強化していった。しかし、それによって目標の達成期限を早めることは結局できなかった。

 つまり、中央銀行が確信をもって「期限の約束」をするには、現実経済は「何が起きるか分からない」という不確実性があまりにも大きすぎるのである。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

アングル:トランプ政権による貿易戦争、関係業界の打

ビジネス

中国の銀行が消費者融資金利引き上げ、不良債権増加懸

ビジネス

ユーロ圏インフレ率、3月速報2.2%に低下 サービ

ビジネス

英製造業PMI、3月は23年10月以来の低水準 新
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:引きこもるアメリカ
特集:引きこもるアメリカ
2025年4月 8日号(4/ 1発売)

トランプ外交で見捨てられ、ロシアの攻撃リスクにさらされるヨーロッパは日本にとって他人事なのか?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 2
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大はしゃぎ」する人に共通する点とは?
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    ガムから有害物質が体内に取り込まれている...研究者…
  • 5
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「…
  • 6
    磯遊びでは「注意が必要」...6歳の少年が「思わぬ生…
  • 7
    8日の予定が286日間に...「長すぎた宇宙旅行」から2…
  • 8
    3500年前の粘土板の「くさび形文字」を解読...「意外…
  • 9
    メーガン妃のパスタ料理が賛否両論...「イタリアのお…
  • 10
    なぜ「猛毒の魚」を大量に...アメリカ先住民がトゲの…
  • 1
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き詰った「時代遅れ企業」の行く末は?【アニメで解説】
  • 2
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 3
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山ダムから有毒の水が流出...惨状伝える映像
  • 4
    【独占】テスラ株急落で大口投資家が本誌に激白「取…
  • 5
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「…
  • 6
    800年前のペルーのミイラに刻まれた精緻すぎるタトゥ…
  • 7
    ガムから有害物質が体内に取り込まれている...研究者…
  • 8
    一体なぜ、子供の遺骨に「肉を削がれた痕」が?...中…
  • 9
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 10
    「この巨大な線は何の影?」飛行機の窓から撮影され…
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    「テスラ時代」の崩壊...欧州でシェア壊滅、アジアでも販売不振の納得理由
  • 3
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛ばす」理由とは?
  • 4
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山…
  • 5
    テスラ失墜...再販価値暴落、下取り拒否...もはやス…
  • 6
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 7
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 8
    テスラ販売急減の衝撃...国別に見た「最も苦戦してい…
  • 9
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 10
    【クイズ】アメリカを貿易赤字にしている国...1位は…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story