美人女給は約100年前に現れた──教養としての「夜の銀座史」
美人女給を揃えた銀座ナンバーワンの店「カフェー・タイガー」
なつさんが働いていた「カフェー・タイガー」は、いまのカフェとは全く別の飲食業態である。現在に例えるならば、ホステスがいるクラブやラウンジに近い。
「カフェー・タイガー」の開業は1925(大正14)年、場所は今の銀座5丁目、銀座通り沿いの西側である。関東大震災後の銀座では「カフェー・タイガー」が押しも押されもせぬナンバーワンのカフェーであった。
美人女給を揃えて人気を博し、永井荷風や菊池寛など文壇の大御所が通い詰めた。かほるさんというベテラン女給が文藝春秋主催の座談会に参加したこともある。「カフェー・タイガー」の女給たちには一流店で働いているというプライドがあったのだ(『夜の銀座史』p136)。
当時、カフェーで働く女給たちの目標のひとつが、独立して自分の店をもつことだった。そんな流れもあってか、昭和初期になると銀座の路地裏には小さなバーの開業が続いた。内装も外装もデザインに凝り、本格的な洋酒をそろえ、有名カフェーに飽きた銀座人を虜にした。
「ルパン」も開業当初はカフェー業態であったが、1935(昭和10)年に改装され、大きなカウンターを設けてバー業態に変更したそうである。いまでも店の奥には半個室のようなブースがあるが、そこにはカフェー時代の雰囲気が残っている。
カフェーの聖地として「ルパン」を訪れるのであれば、カウンターではなくあえて個室で飲むのも良いだろう。
1930年、メディア界にも空前の女給ブームが到来
1930(昭和5)年になると、銀座の夜の風景に変化があらわれる。銀座1・2丁目に派手なネオン装飾をつけた大規模カフェーが進出し、歓楽街化が進んだのである。「カフェー・タイガー」はたちまち過去の店となり、客も新しいカフェーに吸い寄せられていった。
銀座1・2丁目というと、いまでは世界の高級ジュエリーブランドが並び、歓楽街の面影は感じられない。ネオン街というと銀座6丁目から8丁目が中心である。
ところが戦前は、銀座1・2丁目と銀座3丁目以南では管轄の警察署が異なっていた。銀座1・2丁目を管轄していた北紺屋署は大型カフェーの営業許可がとりやすいとか、そうでないとか、そんな噂がまことしやかに語られていた(『東京朝日新聞』1930年11月26日朝刊p7)。
銀座のネオン街化にあいまって、1930(昭和5)年にはメディア界にも空前の女給ブームが到来した。広津和郎が『婦人公論』に小説『女給』を連載したことをきっかけに、映画業界も巻き込みながら大衆娯楽としての「女給物」が巷にあふれた。
日本は大不況に突入し、儲かるならと各メディアが通俗的な題材に飛びついた。小説や映画の女給に憧れる女性たち、女給から女優に抜擢される女性たち、女給経験を小説にする女性たち、「女給」の消費と再帰の循環がぐるぐると動き出した。