コラム

『関心領域』が隠した「塀の向こう側」は今もある

2024年06月21日(金)18時58分
『関心領域』

ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN

<『関心領域』に強制収容所内の映像は一切登場しない。だから、塀の向こう側で何が起きているのか、何が繰り返されているのかを想像する>

アウシュビッツ強制収容所を訪ねたとき、親衛隊将校で収容所長だったルドルフ・フェルディナント・ヘスの家に案内された。

高い塀と鉄条網で囲まれた収容所のすぐ外にヘスの家はあった。振り向いて気が付いた。目の前に高い煙突が見える。ユダヤ人の遺体を焼いた焼却炉がすぐそばなのだ。

本国ドイツから妻と5人の子供を呼び寄せたヘスは、この敷地に瀟しょう洒しゃな家を建てて家庭菜園を作り、仲むつまじく暮らしていた。でもヘスが使用を決定した毒ガス「チクロンB」で殺戮した遺体を焼く煙は、この家にまで漂ってきたはずだ。






収容所内に展示されたユダヤ人犠牲者の靴や鞄などの遺品、チクロンBの大量の空き缶、生地に加工する予定で刈られた2トンのユダヤ人女性の髪などを見つめながら、当時のドイツ国民の多くは残虐で冷酷だったのかと考える。もちろんそんなはずはない。誰もが誰かの親であり子供だった。夫や妻を愛し、両親や子供たちを大切にしながら、彼らは殺戮業務に従事した。組織の一部になったとき、人は善なるままで人を殺す。それをつくづく実感する。

『関心領域』は音の映画だ。映像はヘスの家族を中心としたファミリードラマ。そこにユダヤ人たちの悲鳴や絶叫、処刑される銃撃の音などが絶え間なく重なる。ただし強制収容所内の映像は一切ない。だから想像する。塀の向こう側で何が起きているのか。何が繰り返されているのか。

この連載で『オッペンハイマー』について書いたとき、被爆した広島と長崎の描写がないとの抗議や批判の声に対して、僕は見当違いだと反論した。映画の本質はメタファーだ。ない物を想起させる。これが届くとき、その意味やメッセージは(見せるだけよりも)はるかに強く届く。帰結として『オッペンハイマー』は、戦争終結を理由に原爆使用を正当化するアメリカ人に対して、抑止力として核兵器の保持は当然だと考える世界の多くの人たちに対して、とても強い反核のメッセージを届ける映画になっている。

プロフィール

森達也

映画監督、作家。明治大学特任教授。主な作品にオウム真理教信者のドキュメンタリー映画『A』や『FAKE』『i−新聞記者ドキュメント−』がある。著書も『A3』『死刑』など多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

アングル:フィリピンの「ごみゼロ」宣言、達成は非正

ワールド

イスラエル政府、ガザ停戦合意を正式承認 19日発効

ビジネス

米国株式市場=反発、トランプ氏就任控え 半導体株が

ワールド

ロシア・イラン大統領、戦略条約締結 20年協定で防
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプ新政権ガイド
特集:トランプ新政権ガイド
2025年1月21日号(1/15発売)

1月20日の就任式を目前に「爆弾」を連続投下。トランプ新政権の外交・内政と日本経済への影響は?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼いでいるプロゲーマーが語る「eスポーツのリアル」
  • 2
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べている」のは、どの地域に住む人?
  • 3
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲うウクライナの猛攻シーン 「ATACMSを使用」と情報筋
  • 4
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 5
    「搭乗券を見せてください」飛行機に侵入した「まさ…
  • 6
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者…
  • 7
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 8
    「ウクライナに残りたい...」捕虜となった北朝鮮兵が…
  • 9
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 10
    雪の中、服を脱ぎ捨て、丸見えに...ブラジルの歌姫、…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 3
    睡眠時間60分の差で、脳の老化速度は2倍! カギは「最初の90分」...快眠の「7つのコツ」とは?
  • 4
    メーガン妃のNetflix新番組「ウィズ・ラブ、メーガン…
  • 5
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲う…
  • 6
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 7
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 8
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼い…
  • 9
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 10
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    大腸がんの原因になる食品とは?...がん治療に革命をもたらす可能性も【最新研究】
  • 3
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    夜空を切り裂いた「爆発の閃光」...「ロシア北方艦隊…
  • 5
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が…
  • 6
    ロシア軍は戦死した北朝鮮兵の「顔を焼いている」──…
  • 7
    TBS日曜劇場が描かなかった坑夫生活...東京ドーム1.3…
  • 8
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 9
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 10
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story