『関心領域』が隠した「塀の向こう側」は今もある
ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN
<『関心領域』に強制収容所内の映像は一切登場しない。だから、塀の向こう側で何が起きているのか、何が繰り返されているのかを想像する>
アウシュビッツ強制収容所を訪ねたとき、親衛隊将校で収容所長だったルドルフ・フェルディナント・ヘスの家に案内された。
高い塀と鉄条網で囲まれた収容所のすぐ外にヘスの家はあった。振り向いて気が付いた。目の前に高い煙突が見える。ユダヤ人の遺体を焼いた焼却炉がすぐそばなのだ。
本国ドイツから妻と5人の子供を呼び寄せたヘスは、この敷地に瀟しょう洒しゃな家を建てて家庭菜園を作り、仲むつまじく暮らしていた。でもヘスが使用を決定した毒ガス「チクロンB」で殺戮した遺体を焼く煙は、この家にまで漂ってきたはずだ。
収容所内に展示されたユダヤ人犠牲者の靴や鞄などの遺品、チクロンBの大量の空き缶、生地に加工する予定で刈られた2トンのユダヤ人女性の髪などを見つめながら、当時のドイツ国民の多くは残虐で冷酷だったのかと考える。もちろんそんなはずはない。誰もが誰かの親であり子供だった。夫や妻を愛し、両親や子供たちを大切にしながら、彼らは殺戮業務に従事した。組織の一部になったとき、人は善なるままで人を殺す。それをつくづく実感する。
『関心領域』は音の映画だ。映像はヘスの家族を中心としたファミリードラマ。そこにユダヤ人たちの悲鳴や絶叫、処刑される銃撃の音などが絶え間なく重なる。ただし強制収容所内の映像は一切ない。だから想像する。塀の向こう側で何が起きているのか。何が繰り返されているのか。
この連載で『オッペンハイマー』について書いたとき、被爆した広島と長崎の描写がないとの抗議や批判の声に対して、僕は見当違いだと反論した。映画の本質はメタファーだ。ない物を想起させる。これが届くとき、その意味やメッセージは(見せるだけよりも)はるかに強く届く。帰結として『オッペンハイマー』は、戦争終結を理由に原爆使用を正当化するアメリカ人に対して、抑止力として核兵器の保持は当然だと考える世界の多くの人たちに対して、とても強い反核のメッセージを届ける映画になっている。