宮益坂のスナックとゆういちさんと西部劇『男の出発』

ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN
<アメリカン・ニューシネマの香りがする西部劇『男の出発』は『明日に向かって撃て!』よりずっと秀作だ。宮益坂のでバイトをしていた20代の頃、僕が一番好きだった映画でもある>
20代の中盤から後半、渋谷の宮益坂を5分ほど上ったところにあるスナックでバイトしていた時期がある。店名は「Jump」。学生時代にバイトしていた小さなCM制作会社で経理担当だった「たっちゃん」が、会社を辞めて始めた店だ。
10歳ほど年上のたっちゃんは、大学を卒業しても就職せずに芝居や自主制作映画などにかまけていた僕を何かと気にかけてくれていて、不定期でいいからこの店でバイトしなさいと言ってくれたのだ。
ほとんど常連ばかりだったけれど、Jumpはそれなりに繁盛していた。カラオケなどない。BGMはモダンジャズ。たっちゃんが家から持ってきたオスカー・ピーターソンやヘレン・メリルのレコードをかけていた。基本的にたっちゃんはカウンターで調理担当。ホールは僕ともう1人、「ゆういちさん」で回していた。
ゆういちさんは背が高い。そしてハンサム。20代の頃はモデルをやっていた。彼の写真が掲載されたファッション誌を見せられたことがある。なぜモデルを辞めたのか、その理由を聞いたことはない。
お客さんが途切れた時間帯、カウンターに並んで座っていたゆういちさんから、「達也の一番好きな映画は?」と聞かれたことがある。数秒だけ考えた。好きな映画はたくさんあるけれど、一番好きな映画はそのときによって違う。でもこのとき僕は「『男の出発』です」と答え、ゆういちさんは声を上げて喜んだ。「その映画のタイトルを口にした人は初めてだよ。うれしいなあ。俺も一番好きな映画なんだ」
タイトルの「出発」は「たびだち」と読ませる。カウボーイに憧れていた少年ベンは、2000頭の牛を運ぶカウボーイたちの旅に初めて加わった。母親に見送られてすぐに、襲撃してきた牛泥棒の男たちと銃撃戦が起きる。泥棒は皆殺しにしたが、こちらも3人が死んだ。ベンは物陰で震えていた。殺すことも殺されることも怖い。でもカウボーイたちは殺すことも死ぬことも躊躇しない。みな粗野で下品。これが大人になることなのか。ベンは悩む。
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