松元ヒロが被写体の映画『テレビで会えない芸人』に感じたTVマンの歯ぎしり
ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN
<舞台はいつも大入り。でもテレビで見ることはまずない──多数派が形成する欺瞞の安定、表層的な調和にヒロさんは笑いの刃(やいば)を突き立てる>
何をきっかけにヒロさんのライブに通うようになったのか。それほど昔のはずはないけれど、どうしても思い出せない。
とにかくいつの間にか観始めた。そして今は、東京で公演があるときはほぼ欠かさずに通うようになった。
ヒロさんの基本はスタンダップコメディー。つまりベースは笑い。ネタは基本的に政治風刺と社会風刺。ユーモアとペーソス。揶揄と物まねとパントマイム。大笑いしながら観客は、時おり吐息をつく。笑っている場合じゃないんだよなあ、と嘆息する。でも次の瞬間にまた大爆笑。
ヒロさんをテレビで見ることはまずない。その理由が僕には分からない。現政権に批判的なギャグが多いからだろうか。あるいは現行憲法への支持を主張するからだろうか。政治的で社会的なスタンスを明確にすることを、テレビ(だけではなく日本のメディア)は嫌う。その理由もやっぱり分からない。中立公正原則に反していると思われるからだろうか。でも欧米では、政府や社会秩序を毒舌たっぷりに批判したレニー・ブルースも含めて、多くのスタンダップコメディアンが昔も今も当たり前のようにテレビに出演している。
おそらく日本は、(特に選挙報道が典型だが)メディアも含めて社会全体が沈黙することで、デモクラシーを実現しようとしているのだろう。欧米は逆だ。メディアそのものも含めて多くの人が、積極的に政治的な発言をして議論することで、デモクラシーを実現しようとする。より成熟したデモクラシーを実現するのはどちらなのか。ここに書くまでもないだろう。かつて対談したとき、ヒロさんはこんなことを僕に言った。
「タブーといわれることをみんなが恐れて触れなければ、やっぱりタブーは肥大しますよね。でも多くの人は言えない。タブーですから。だから僕が言う。それによって気づく人はきっといる。所詮(しょせん)はお笑いですが、だから逆に強いんですよね」(森達也『FAKEな日本』)
多数派が形成する欺瞞の安定。見て見ないふりの表層的な調和。松元ヒロはそこに笑いの刃(やいば)を突き立てる。メディアによって不可視の領域に置かれた要素を露呈する。だからこそ日本のテレビは、リスクヘッジやコンプライアンス、ガバナンスなどの言葉を潤滑油に使いながら、彼を敬遠する。不可視にする。
舞台はいつも大入り。しかしテレビで会うことはできない。その唯一無二のポジションを、こうしてヒロさんは獲得した。