映画『村八分』で描かれる閉鎖性は、日本社会の縮図であり原点
ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN
<法よりも道徳が大切? 村ぐるみの替え玉投票を告発した女子高生とその家族に向けられる怒り──テーマはまさしく同調圧力だ>
決め付けて申し訳ないけれど、この映画を観た人はとても少ないと思う。僕は存在すら知らなかった。再来年公開予定の僕の劇映画のプロデューサーである井上淳一から、「作りはともかく内容は参考になるかも」と渡されたDVDで視聴した。
『村八分』の公開は1953年。製作は近代映画協会と現代ぷろだくしょん。脚本は新藤兼人で、監督はこれがデビュー作となる今泉善珠(よしたま)。
ほとんど期待せずにソファに寝転がって観始めた。でも始まって20分を過ぎた頃、僕は居ずまいを正していた。この映画はすごい。
1952年に静岡県富士郡上野村(現・富士宮市)で起きた人権侵害事件を題材にしたこの映画は、静岡県の参院補欠選挙の発表の日から始まる。朝陽新聞(実際にはもちろん朝日新聞)静岡支局の本多記者(山村聡)は、野田村で大規模な替え玉投票が行われていたことを訴える投書を入手した。投書の主は野田村在住の女子高生、吉川満江(中原早苗)。村を取材した本多は、役場が主導する形で不正投票が行われていたことを突き止める。その記事が朝陽新聞に掲載され、司法当局と警察が捜査を始める。
村の有力者の言うままにしていた村人たちはパニックだ。その怒りは投書を書いた満江とその家族に向けられる。
つまり村八分だ。
映画の中盤までは、その村八分の様子が克明に描かれる。ちょうど種まきの時期なのに、村で共有している牛や馬を吉川家は貸してもらえない。満江が通う高校の校長は、法よりも道徳が大切だと遠回しに満江を戒める。でも社会科担当教師の香山(乙羽信子)は、あなたは間違っていない、と満江を励まし続ける。
状況を知った本多記者は、この村八分についても記事にする。多くの新聞や雑誌、そしてラジオの取材が村に押し掛ける。ただしメディアは、吉川家を救わなかった。本多のキャラクターもかなりいいかげんだ。意図したかどうか分からないが、70年近く前の映画なのに、今と変わらないメディアの問題が提起されている。
特筆すべきは村の閉鎖性と普遍性だ。いくら記事を書いても状況は変わらないことにいら立った本多が、「泥沼にくいを打ち込んでいるみたいだ」と妻に言って、「日本中が泥沼さ」と続けるシーンがある。ラジオの取材でマイクを向けられた村人は「吉川満江さんをどう思うか」と問われ、「何も考えてない」と即答する。満江の高校で「生徒大会」が行われ、「純朴な村人たちだ」との意見に「だから悪い人に利用されるんだ」と反論の声が上がる。安易に善悪を対置させることを敢然と拒否している。