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最初の作品集は「遺作集」、横尾忠則の精神世界への扉を開いた三島由紀夫の言葉
1956年、神戸新聞のカットイラストの常連入選者5人によるグループ展を神戸の喫茶店で開催したところ、たまたま立ち寄った新聞社の社員から声をかけられ、神戸新聞宣伝技術研究所に助手として入社。その後、大阪のナショナル宣伝研究所に転職し、その東京移転に伴って、1960年、横尾は遂に上京することになる。
「僕は、両親から甘ったれに育てられたから、素直だが優柔不断な主体性を持たない子だった。受験の前日に先生に帰りなさいと言われたら、はいと言って帰る。神戸新聞に入る時も人に誘われて。結婚も上司に紹介されたことから。自ら運命を切り拓いたわけではなく、100%運命に従ってきた」
高度経済成長期の日本でグラフィック・デザインの寵児に
だが、上京した横尾は、戦後の高度成長期の勢いや大きなうねりのなかで時代の寵児となっていく。上京後間もなく研究所を退社し、田中一光の紹介で、日本最高水準のデザイナーを結集して前年に設立されたばかりの日本デザインセンターに所属する。ここで、アメリカの雑誌や画集を通してポップ・アートや抽象表現主義といった動向を知り、初めてアートを意識するようになったが、亀倉雄策や原弘といったそうそうたるメンバーが集い、しのぎを削るような環境は自分の性格に合わず、精神的な負担が大きかったため4年で辞めてしまう。その後、若いデザイナー仲間3人でイラスト中心の会社を作るが、仕事が全く来ず、約1年半で解散状態に。
一方この頃、時代の熱い空気のなか、横尾は現代アーティストグループのハイレッドセンター(高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之)による《シェルター計画》(1964年)にオノ・ヨーコやナムジュン・パイクらとともに参加したり、「天井桟敷」の寺山修司や写真家の細江英公、「状況劇場」を主宰する唐十郎、澁澤龍彥、三島由紀夫、音楽家の一柳慧ら時代を牽引する多彩な人物と出会い、親交を深める。また、様々な出会いの裏で、1960年には養父を、65年には養母を相次いで亡くしてもいる。
一人で仕事をすることになった横尾に、土方巽の舞踏公演「バラ色ダンス」(1965年)のポスター制作の仕事が舞い込む。また同時期に、旭日旗を背景にした横尾の首吊り姿と「29歳で頂点に達し、ぼくは死んだ」という英文コピーを組み合わせた、キッチュで色使いの派手な自身のための広告《TADANORI YOKOO》も発表。モダニズムデザインへの決別や自分独自の道を歩む決意を表したとされる、この実質的なデビュー作はのちに初期の代表作となる。
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