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最初の作品集は「遺作集」、横尾忠則の精神世界への扉を開いた三島由紀夫の言葉
戦前から戦後へ 描くことの原点
横尾は1936年、兵庫県多可郡西脇町(現:西脇市)で生まれた。
未熟児で生まれ、幼い頃に呉服の行商を営む伯父夫婦の養子になる。暮らしは決して楽ではなかったというが、自然豊かな環境で、信仰深い養父母に可愛がられていたという。周りの子供たちの親よりも高年の養父母のもと、色鮮やかな着物の紋様(播州織)や戦前、戦中の田舎の土着的な風景を見ながら育ったことで、闇や知らないものに対する恐怖と興味と冒険心を抱くようになる。
横尾の創作において最も重要なテーマのひとつと捉えられるのが「死」だ。その背景にはいくつかの理由が考えられるが、なかでも高齢の養父母が亡くなってしまうかもしれないという恐怖と戦争体験がある。
西脇は空襲を逃れたが、都会の神戸や明石の空襲で赤く染まった空や廃墟となった大阪の街の風景が彼の脳裏に深く焼き付いたことは、後年の作品に明確に見て取れる。特に恐ろしかったのは、終戦間際の小学3年生のある日、生徒が大勢いる校庭に突然グラマン戦闘機3、4機が降下してきた時で、パイロットの顔が見えるほどに機体が迫り、子供ながらに死を意識したという。
一方で横尾は、この体験を、死という個人的なものが戦争という社会的なものと繋がった一瞬であり、社会に向けて扉が開かれた出来事だったとも言う。恐怖を感じる一方で、サーチライトに神々しさやファンタジーの側面を見たり、廃墟の風景の向こうに生を感じ取るなど、常に物事を両面、両性の原理で見るという、相反するものが一体化したような感覚が横尾には顕著に見て取れるが、実父が夢遊病者だった記憶についても、愛情と恐怖を同時に抱いていたと語っている(注2)。
横尾は、いわゆる落書きの類を子供時代にしたことがないという。1941年、5歳の時に描かれた作品《武蔵と小次郎》のリアルな描写を見ると、2歳で既に絵本や漫画を手本として絵を描いていた彼にとって、絵を描くことはすなわち模写だったと理解できる。
「人の絵を見て真似して描くことが絵を描くことだと思っていた。自分の発想で(何かを生み出そう)なんて思わなかった。画家になりたいとなんか思ってなかった...」
終戦後に進んだ中学では、漫画や江戸川乱歩の探偵小説、南洋一郎の冒険小説やその挿絵などに夢中になる。
高校では、挿絵画家や漫画家、郵便配達員になることを思い描いていたようだが、2年生の時、東京から来た武蔵野美術学校(現:武蔵野美術大学)出身の絵画教師の影響で油絵を始める。そして、その教師を頼って受験のために東京に行くも、受験前日に突然帰るように言われ(後に横尾家の経済状況を案じた教師の親心だったことを知る)帰郷し、加古川の印刷会社に就職する。
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