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「生き残った以上は、後悔する生き方はしたくない」──宮島達男のアーティスト人生
当初、父親の工務店を継ぐべく、早稲田大学理工学部で学び、一級建築士の資格をとろうと考えていた宮島だが、高校2年生の春休みに、青木繁やパリで縛られることなく自由に生きた佐伯祐三といった画家たちに憧れるようになり、青木繁が学んだ東京美術学校(現・東京藝術大学)に行きたいと思い始める。
突然進路を変え、美術の予備校に通い始めた宮島だが、当然現実はそれほど簡単ではなく、東京藝術大学を受験するも不合格。そして、浪人時代に通った予備校で、アメリカの抽象表現主義の動向を知り、現代アートの洗礼を受けることとなるのだ。そこから、「まるで、熱に浮かされたように」、神田の古書店街で昔の『美術手帖』をあさったり、ジャクソン・ポロックの作品を見に、夜行列車に乗ってわざわざ倉敷にある大原美術館を訪れたりと、貪欲に現代アートの知識を吸収していった。
本人曰く、「絵はもう古いとか、自分のオリジナルの表現は何かとか考えて、すっかり頭でっかちになっていた」ようで、翌年の受験も失敗。当時は池田満寿夫らが活躍していた時代だったため、藝大なんか行かずとも活躍出来る人もいると考えた宮島は、一般企業にサラリーマンとして就職する。
そうして、仕事の傍ら絵を描き始めるが、その生活にもだんだん飽きが来て、そのうちに、給料の全てをディスコ通いに費やすようになる......。しかし、新宿のツバキハウスで朝まで踊る生活を2年間ほど続けたある日、始発電車を待って路上で段ボールにくるまって寝る自分の姿に、これではまずいと気付き、遂に改心。親に土下座して4年ぶりに予備校に通い直し、やっと「普通に描くこと」に専念することとなった。
こうした回り道の果てに、無事、東京藝術大学に合格し、1980年に大学生活を始めた宮島は、同級生の多くが受験が終わった途端、遊び惚けてしまうのに対し、最初から作家になると決めていたため、自ら「コンテンポラリーアート同好会」を発足させたり、自然と人工というコンセプトに基づくパフォーマンスを路上で展開し始める。
当時のアート界では、屋外の建築物等に介入する大規模なプロジェクトを行う川俣正の活躍が美術誌などで取り上げられ、いっぽうで1983年には段ボールを使った作品を展開する日比野克彦がグラフィック大賞をとるなど注目されるようになっていた。
宮島も、油絵では伝統あるヨーロッパの作家たちに勝てないうえ、自分の言いたいことが言えないもどかしさを感じることもあり、現代アート史の流れの先にいかに自身のオリジナリティを打ち出せるかという問いのもとにパフォーマンスなどを試みていた。
しかし、ちょうどその頃、アメリカのジュリアン・シュナーベルらのニュー・ペインティング、イタリアのフランチェスコ・クレメンテらによるトランス・アヴァンギャルディア、ドイツのアンゼルム・キーファーらに代表される新表現主義といった、神話的主題、物語性、荒々しい筆致の具象的表現などが特徴的な動向が世界的に席捲するようになり、日本では現代アートの流れなんか関係ないという風潮が生まれ、盆をひっくり返されたというか、だまされたような感じがしたという。
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