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李禹煥は、どのように現代アーティスト李禹煥となったか
李禹煥美術館(写真:大沢誠一 2013年撮影)
<国立新美術館で開催中の、日本では17年ぶりとなる個展が話題のアーティスト・李禹煥(リ・ウファン)。文学を志していた韓半島の少年は、海を超え、戦後日本美術の主要な動向である「もの派」の理論的支柱となった>
2022年は、フランス南部のアルルに李禹煥(リ・ウファン)の個人美術館「Lee Ufan Arles」がオープンし、東京の国立新美術館では東京で初となる大規模な回顧展が開催されるなど、李の世界的な評価の高まりを決定付ける年となった。
李は1960年代末より戦後日本美術の主要な動向である「もの派」を牽引し、全ては相互関係のもとにあるという考えに基づいた彫刻・絵画作品、論考などで知られている。
その李の世界初の個人美術館が、香川県直島に2010年に開館した李禹煥美術館である。李に同美術館について尋ねると、当初、2007年のヴェネツィア・ビエンナーレにおける李の個展「共鳴」を観て感銘を受けたベネッセアートサイト直島の福武總一郎代表から美術館の設立を提案された時は、あまり乗り気ではなかったという。
しかし、設計を担当した安藤忠雄から、まずは3人で場所を見ようと誘われ、やっと訪問する気持ちになり島を訪れる。そこで、安藤から「美術館にこだわらないで、李さんが作ってみたい空間があるだろう」と言われ、初めてイメージが浮かび、取り組めるようになったという。「アートの島」と呼ばれる直島を訪れるのはその時が初めてだったが、最初は本当に普通の島で驚いたものの、徐々に場所を知るにつれて、特色がない普通の場所だからこそ、アートが共存できると思うようになっていったと李は語る。
このように、いわゆる効率重視で結論やオチから始まるのではなく、事の発端からそれがどのように展開していったかを順を追って説明する話し方から、李にとって、作品が置かれる空間や場所との関係、人々とのやり取りも創作の一部であり、作りながら考え、考えながら作る、そのプロセス自体が「開かれたフィールド」としてあることが読みとれる。
こうした「見るもの自体を作り上げることよりも、世界と出会う視覚的な契機を提示する(注1)」ことを念頭に、可能な限り作ることを制限し、自己と他者の対話の場づくりをするという考えは、しばしば李の生き方を通して醸成されたものとも言われる。
本人が、外をほっつき歩き、国家の保護を受けることもなく、孤独に戦うなかで、批判を受けたり、理解してもらえないこともあり、辛く厳しい道だったが、それでも、しつこく、厳しく、自身を制しながら創作を続けるうちに、アジアの政治経済的位相や世界的な価値観、ものの見方も変わり、自分の考えが理解されるようになっていった(注2)という彼の歩みを振り返ってみたい。
注1. 李禹煥「照応」、図録『李禹煥美術館』公益財団法人 福武財団、2015年
注2. 2022年6月、国立新美術館の個展の事前記者発表での李の発言および本人のインタビューより。
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