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「命のビザ」杉原千畝氏とユダヤ人少年が灯したロウソクの火を消すな
その時、杉原氏は「このお金で映画に行きなさい。私が祭日のためのおじさんになってあげる」とガノール少年の小さな手に硬貨を握らせる。
ガノール少年はお礼に「もし僕のおじさんなら、今度の日曜日に僕の家で開くハヌカの集まりに来ませんか」と誘った。杉原夫妻は約束通り、家族や親族ら約30人が集うハヌカにやって来た。
その時、ガノール少年の家に身を寄せていたポーランド系ユダヤ人がナチスのユダヤ人弾圧について語りだし、泣き崩れた。杉原氏に日本行きのビザを発給してくれないかと頼んだ。日本はドイツと日独伊三国同盟を結んでおり、皆、馬鹿げた考えだと一蹴した。
日本行きのビザを取得するためには最終滞在国のビザと日本に一時滞在できる十分な資金を持っている証明が必要だ。
優秀な外交官だった杉原氏はナチスドイツやソ連の動向を探るため、休日には国境沿いに家族連れでピクニックに出掛けたり、ユダヤ人の家庭を訪れたりして情報を収集していた。ナチスの残虐行為についても把握していたようだとガノール少年は回想している。
杉原氏はガノール少年の父に「私があなたなら今、リトアニアでやっている商売のことは考えない」とすぐリトアニアを脱出するよう助言した。米国に住む親戚の勧めで米国行きのビザを取得していたものの、母が乗り気ではなく、渡米をためらっていたのだ。
失望に終わる希望
1940年6月、ドイツによるパリ陥落の翌日、ソ連軍がリトアニアに侵攻。裕福なユダヤ人や右翼、歴史修正主義者のシベリア送りが始まったものの、リトアニアにいたユダヤ人の大半はホッと胸をなでおろした。しかしリトアニアのパスポート(旅券)や米国行きのビザは無効になり、ガノール少年の家族は出国できなくなった。
ある日、ガノール少年の家にオランダ系ユダヤ人がやって来た。オランダのヤン・ツバルテンダイク領事(フィリップス社のリトアニア駐在員)からカリブ海に浮かぶオランダ領キュラソー島ならビザなしで行ける抜け道を教えられ、スタンプ(いわゆるキュラソービザ)を押してもらったというのだ。
7月下旬、キュラソービザがあれば何とかなるかもしれないと杉原氏はガノール少年らの目の前で誰かに電話した。そして本国の外務省が再三にわたって反対したにもかかわらず、日本通過ビザの発給を決断する。
杉原氏が電話した人物について、ガノール少年は「杉原氏の家で一度会ったことがあるロシア人で、ソ連の領事か大使だったかもしれない」と推測している。杉原ビザを取得したガノール少年の家族はカウナス駅に向かった。駅にはポーランド系ユダヤ人難民が殺到していた。
しかしリトアニアのパスポートを持っていた家族が逮捕されるのを目撃し、自宅に引き返す。リトアニアはもうソ連の一部だった。杉原氏は計2139家族に日本通過ビザを発給。9月初旬、国際列車でベルリンに向かう。