コラム

パレスチナ映画『ガザの美容室』にイスラエルが出てこない理由

2018年06月23日(土)11時27分

敢えてイスラエルとパレスチナという対立の構図をとらなかったところに、パレスチナ問題の映画ではなく、パレスチナ人の映画を撮ろうとする監督の意志が読み取れる。

その背景には、パレスチナ政治の混迷がある。かつてパレスチナ組織がパレスチナの解放を掲げて武装闘争をしていた時代は、1993年にPLOがイスラエルとオスロ合意を結んでパレスチナ自治が始まったことで終わりを告げた。

アラファトが率いるファタハ主導のパレスチナ自治政府は、欧米や日本の支援を私物化する腐敗した体制となった。ファタハに代わって選挙を制したハマスは、強権的なイスラム支配を民衆に強制した。さらに悪いことに、ファタハとハマスの間で不毛な対立・抗争が続いている。こうなると、政治の混迷というよりも、政治の破綻である。

「パレスチナ解放」という、かつては死をかけて闘われた政治的大義は形骸化し、崩れている。しかし、初めてパレスチナ人は「解放闘争」の呪縛から解放されて、生身の人間として立ち現れてきたともいえよう。

映画監督もまた、政治ではなく人間の問題に焦点を当てることが可能になった。その中から、ハニ・アブ・アサド監督が自爆犯を描いた『パラダイス・ナウ』やイスラエルの協力者を描いた『オマールの壁』など、パレスチナを舞台にしながら、スリリングな人間状況を描いた映画が出てきた。

『パラダイス・ナウ』『オマールの壁』と同様のテーマ

『パラダイス・ナウ』はイスラエル国内のバスで自爆する若者を描くが、イスラエルの占領の実態は映画ではほとんど出てこない。イスラエルの占領に抗議して死をかけて殉教作戦を行うというような自爆を正当化するストーリーではなく、若者たちの友情や葛藤を描く作品となっている。

『オマールの壁』では、イスラエルによって巧妙に協力者に仕立てられるパレスチナ人の若者たちが主人公だが、イスラエルの占領との対決よりも、人間不信に陥るパレスチナの若者たちの愛と信頼をテーマにした人間ドラマがサスペンスとして描かれている。

2007年に来日したアブ・アサド監督にインタビューした時、監督は「映画は私にとっての抵抗の手段である」としながらも、「映画は政治の道具ではない」と言い切った。

私はこのコラムで『オマールの壁』を取り上げた時(映画『オマールの壁』が映すもの(1)パレスチナのラブストーリーは日本人の物語でもある)、「パレスチナの占領地を舞台として、政治ではなく、人間性の在処を問い詰めるような映画を見せてくれる。(パレスチナ)解放を掲げた理想は破綻し、一方でイスラエルの占領はますます重くのしかかり、すべてが袋小路になったパレスチナから、人間を取り戻そうとする闘いである」と書いた。同様のことが『ガザの美容室』でも言えるだろう。

日本ではいまだにパレスチナ映画を、政治的な文脈で位置づけ、評価しようとする志向が強い。しかし、政治の破綻によって、いまパレスチナ人が直面しているのは人間の危機である。

プロフィール

川上泰徳

中東ジャーナリスト。フリーランスとして中東を拠点に活動。1956年生まれ。元朝日新聞記者。大阪外国語大学アラビア語科卒。特派員としてカイロ、エルサレム、バグダッドに駐在。中東報道でボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イラク零年』(朝日新聞)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)、共著『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)、『「イスラム国」はテロの元凶ではない』(集英社新書)。最新刊は『シャティーラの記憶――パレスチナ難民キャンプの70年』
ツイッターは @kawakami_yasu

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

尹大統領の逮捕状発付、韓国地裁 本格捜査へ

ワールド

アングル:フィリピンの「ごみゼロ」宣言、達成は非正

ワールド

イスラエル政府、ガザ停戦合意を正式承認 19日発効

ビジネス

米国株式市場=反発、トランプ氏就任控え 半導体株が
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:トランプ新政権ガイド
特集:トランプ新政権ガイド
2025年1月21日号(1/15発売)

1月20日の就任式を目前に「爆弾」を連続投下。トランプ新政権の外交・内政と日本経済への影響は?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼いでいるプロゲーマーが語る「eスポーツのリアル」
  • 2
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べている」のは、どの地域に住む人?
  • 3
    「搭乗券を見せてください」飛行機に侵入した「まさかの密航者」をCAが撮影...追い出すまでの攻防にSNS爆笑
  • 4
    感染症に強い食事法とは?...食物繊維と腸の関係が明…
  • 5
    女性クリエイター「1日に100人と寝る」チャレンジが…
  • 6
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 7
    フランス、ドイツ、韓国、イギリス......世界の政治…
  • 8
    失礼すぎる!「1人ディズニー」を楽しむ男性に、女性…
  • 9
    オレンジの閃光が夜空一面を照らす瞬間...ロシア西部…
  • 10
    本当に残念...『イカゲーム』シーズン2に「出てこな…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 3
    睡眠時間60分の差で、脳の老化速度は2倍! カギは「最初の90分」...快眠の「7つのコツ」とは?
  • 4
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼い…
  • 5
    メーガン妃のNetflix新番組「ウィズ・ラブ、メーガン…
  • 6
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲う…
  • 7
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 8
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 9
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 10
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    大腸がんの原因になる食品とは?...がん治療に革命をもたらす可能性も【最新研究】
  • 3
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    夜空を切り裂いた「爆発の閃光」...「ロシア北方艦隊…
  • 5
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が…
  • 6
    TBS日曜劇場が描かなかった坑夫生活...東京ドーム1.3…
  • 7
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 8
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 9
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
  • 10
    「腹の底から笑った!」ママの「アダルト」なクリス…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story