コラム

パレスチナ映画『ガザの美容室』にイスラエルが出てこない理由

2018年06月23日(土)11時27分

ハマス政府とマフィアとの武力抗争が生まれた理由

ガザでは、1994年に実施されたパレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)によって、ヨルダン川西岸の都市エリコとともにパレスチナ解放機構(PLO)の主流派組織「ファタハ」主導でパレスチナ自治が始まった。

しかし、2006年のパレスチナ自治評議会選挙で、イスラム組織「ハマス」がファタハを破って勝利。2007年夏にガザでハマスがファタハを排除して支配するようになった。イスラエルによる封鎖はその時に始まった。

映画で描かれるようなハマスとマフィア集団の抗争は、2007年にハマスがガザを抑えてから始まった。ファタハ支配も、ハマス支配も、どちらも強権支配だが、ファタハは腐敗して地元の有力家族と結びつき、マフィアがはびこった。腐敗によって、ファタハは民衆の支持を失って選挙で敗北したのだ。

一方のハマスは慈善活動、社会活動、宗教活動で民衆に根をはるイスラム組織であるが、強力な軍事部門を有し、ファタハを排除してからは言論を統制する体制をつくっている。

この映画が描くような、ハマス政府とマフィアとの武力抗争があったのは、2007年にガザのハマス支配が始まってすぐ、ファタハ関係者やその下でのさばっていたマフィアをハマスが次々と制圧した頃である。私も2007年秋にガザで取材した時、ハマスの武装部門に包囲されて、ロケット弾を撃ち込まれたファタハ系の有力家族のビルを見たことがある。

しかしその後、ファタハ支配下で乱れていた治安は、ハマス支配になって急速に改善されたというのが、一般的な民衆のとらえ方だった。もちろん、批判勢力に対する弾圧は、ガザのハマス政府と、ヨルダン川西岸でファタハが支配する自治政府の間で差異はない。

ガザでハマス政府とマフィアとの武力抗争は決して日常的に起こっているわけではない。むしろ、ガザでの戦闘と言えば、イスラエルによって繰り返される空爆や侵攻である。2014年夏の空爆・侵攻では、パレスチナ人2000人以上が死んだ。

しかし、この映画ではガザを描くのに、意識的にイスラエルによる空爆・侵攻という設定を避けている。

「死ではなく人生を描きたかった」と監督のナサール兄弟

タルザンとアラブというガザ出身の双子のナサール兄弟監督はインタビューで、「撮影の準備をしていた2014年7月に、ちょうどガザ地区で新たな戦争が起きたんだ。イスラエル軍は3週間で1000人以上の一般市民を殺した」と明かし、「そんな状況で戦争について語るべきか、パレスチナ人同士の抗争というテーマを続けるか、選ぶことは難しかった」と述べている。結果的にパレスチナ人同士の抗争を描くという当初の方針を変えなかった。

それについて監督は「僕らは死ではなく人生を描きたかったからだ」と語り、「テレビやマスメディアは死を伝えるけど、日々の生活や本当の暮らしぶりには無関心だ。まるで爆撃のないガザ地区には価値がなく、存在すらしていないかのように」と続けた。

私は2014年まで新聞の中東特派員としてガザ情勢を報じてきた。「爆撃のないガザ地区には価値がなく、存在すらしていないかのよう」という、メディアの扱いに対する監督の言葉にはっとさせられた。2007年以降、ガザが日常的に非人道的な封鎖状態に置かれていることについて、日本のメディアが十分に報道してきたとは思えない。

プロフィール

川上泰徳

中東ジャーナリスト。フリーランスとして中東を拠点に活動。1956年生まれ。元朝日新聞記者。大阪外国語大学アラビア語科卒。特派員としてカイロ、エルサレム、バグダッドに駐在。中東報道でボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イラク零年』(朝日新聞)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)、共著『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)、『「イスラム国」はテロの元凶ではない』(集英社新書)。最新刊は『シャティーラの記憶――パレスチナ難民キャンプの70年』
ツイッターは @kawakami_yasu

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