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エジプトのキリスト教会テロはなぜ起こったか【解説・前編】
Amr Abdallah Dalsh-REUTERS
<12月11日、カイロのコプト教(キリスト教の一派)教会で爆弾テロがあり、27人が死亡、イスラム国が犯行声明を出した。6年前にもコプト教会でテロがあったが、その時とは状況が異なる。背景にあるのは、エジプト政治の激動と、イスラム教徒とキリスト教徒の関係の変化だ> (写真はコプト教会テロ犠牲者の葬列、12月12日、カイロ)
12月11日、エジプトのカイロにあるコプト教会で爆弾テロがあり、27人が死んだ。コプト教はキリスト教の一派で、エジプトでは人口の1割を占めている。過激派組織「イスラム国」が自爆ベルトを巻いたメンバーによるものとして犯行声明を出した。
暴力が蔓延する中東で、イスラム過激派がキリスト教徒を標的にしたテロと言っても、あまり驚きはないかもしれない。しかし、エジプトではコプト教会への爆弾テロは2011年1月1日に地中海に面したエジプト第2の都市アレクサンドリアのコプト教会で起きて以来で、6年ぶりのことである。
この6年間、エジプトは政治的な激動を経験した。「アラブの春」を象徴するエジプト革命によって強権体制が倒れ、その後、民主的な選挙でイスラム系大統領が誕生したが、1年後には軍のクーデターで排除され、現在は軍主導政権となっている。
この流れの中で、イスラム教徒とキリスト教徒の関係を振り返ってみよう。
2011年、「アラブの春」直前にあったコプト教会テロ
6年前のアレクサンドリアのコプト教会のテロは、私が新聞社の中東担当編集委員として同市に拠点を置いていた時だった。12月31日深夜に始まった年頭のミサが狙われた。私は元日の朝から現場の教会で取材をした。教会の前に大勢のコプト教徒が集まり、十分なテロ対策をとらなかった警察に対する批判を口々に語った。さらにある年配の女性が「私はあなたに伝えたいことがある」と話しかけてきて、コプト教徒が政府への就職などで差別されていると訴えた。
当時、コプト教徒はムバラク政権の支持勢力とみなされ、公然と政府批判を口にすることはなかったため、この時の政権批判は意外に思えた。テロの後、カイロではコプト教徒が内務省のビルの前で政府批判のデモをするなど大きな問題になった。一方、イスラム教徒がコプト教徒と「反テロ」で連帯する動きも出て、キリスト教の十字架と、イスラム教を表す三日月を組み合わせたマークが生まれた。
テロの後、コプト教徒から警察への批判が噴き出したという意味では、同じ2011年1月の25日に始まる「エジプト革命」の前触れともいえる出来事だった。エジプト革命は、最初は体制変革を求める政治的な運動ではなく、警察の横暴に対する若者たちのデモとして始まった。
エジプト革命での若者たちの動員に重要な役割を果たしたフェイスブックサイト「クッリナ・ハーリド・サイード(我々はみな、ハーリド・サイードだ)」は、前年に警官に暴行を受けて死んだハーリド・サイードという名の若者の名前であり、警官の横暴に抗議する若者たちが集まるサイトだった。
エジプト革命ではデモが始まった1月25日の3日後の28日が最初の金曜日で、金曜礼拝の後に全国で一斉に「政府批判」のデモが始まった。それに対し、警官隊は散弾銃や実弾で制圧しようとして、デモ隊に800人近い死者が出た。若者たちは全土で100カ所以上の警察署を焼き討ちし、革命後1年ほどの間、警察は表に出ることができなかった。
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