コラム

【追悼】元スパイ作家ル・カレに元CIA工作員から愛を込めて

2020年12月26日(土)11時30分

死去したル・カレはスパイ小説を純文学の域に高めた(2001年) ARND WIEGMANN-REUTERS

<最高の情報工作員とは、不道徳で冷酷な職業に生きる一流のモラリストのこと>

ジョン・ル・カレと私を結び付けたのは、モラルの曖昧さだったのかもしれない。ル・カレは過去60年間、繊細なスパイ文学の第一人者であり続けた。その作品は、真実と思われていたものが幻覚に変わる情報工作の世界を舞台に「高邁な」はずの空虚な任務の中で堕落する男たちを描いていた。

私は以前、自分の著書『ザ・インテロゲーター(尋問官)』(邦訳未刊)の評論をル・カレに依頼したことがある。彼の作品と同様、道徳が相対的なものにすぎないスパイ活動の「グレーな世界」を描いた本だったが、同時にCIAの拷問についても書いた。

2001年の9.11同時多発テロ後の数年間、CIAとアメリカがやった行為をル・カレは軽蔑していた。2008年のインタビューではこう語っている。「私も尋問をやっていたから断言できる。拷問で情報を得るのは、自分自身を愚弄する行為だ。手に入った情報は真実ではない」

ル・カレは当初、依頼を快く引き受けてくれたが、何度か話をした後、最終的には断りの返事が来た。

情報機関の過酷で空虚な道徳的世界を描く作家としては、おそらくル・カレとグレアム・グリーンが双璧だろう。優れたスパイは、真実は絶対ではないことを理解しなければならない。この世界で心に傷を負わずに活躍できるのは、何も感じず何も信じないソシオパス(社会病質者)だけだ。

ル・カレは『寒い国から帰ってきたスパイ』(邦訳・ハヤカワ文庫)の中で、「スパイとは何か」と尋ねている。「神官、聖者、殉教者か? うぬぼれた愚か者、裏切り者の汚らわしい集団でもある。軟弱者、サディスト、酔っ払い、腐った人生を輝かせるためにカウボーイとインディアンを演じる者だ」

私の知る限り、最高の情報工作員は全員ソシオパスだった。彼らは嘘をつき、心を操り、平然と他人の魂と命を破壊できる。私は彼らの中に真の邪悪を見た。

ル・カレ作品の最重要人物ジョージ・スマイリーは「魂を持つアンチヒーロー」だった。彼はよく知っていた。自分が失敗すれば、信じるものが全て破壊されることを。

成功すれば、自分がやむを得ず手を染めた卑劣な行為が、感情を何とか保つためにこだわり続けた信念を傷つけることを。この現実認識を共有していたからこそ、スマイリーと宿敵であるソ連のカーラはお互いを倒そうとしながら称賛し合い、友情を育むことさえできた。だからこそ、スマイリーの瞳には常に悲しみと鋭敏な洞察力が同居している。カーラは常にスパイの技巧や現実、人間の本性が持つ二重性を受け入れている。2人は周囲の空虚な世界を操る一方で、影の世界にも光があるという淡い希望を捨てなかった。

プロフィール

グレン・カール

GLENN CARLE 元CIA諜報員。約20年間にわたり世界各地での諜報・工作活動に関わり、後に米国家情報会議情報分析次官として米政府のテロ分析責任者を務めた

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

英1月財政収支、154億ポンドの黒字 予想下回り財

ビジネス

ユーロ圏総合PMI、2月50.2で変わらず 需要低

ワールド

焦点:低迷するドイツ、総選挙で「債務ブレーキ」に転

ワールド

英国、次期駐中国大使に元首相首席秘書官が内定 父は
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ウクライナが停戦する日
特集:ウクライナが停戦する日
2025年2月25日号(2/18発売)

ゼレンスキーとプーチンがトランプの圧力で妥協? 20万人以上が死んだ戦争が終わる条件は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 3
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 4
    ビタミンB1で疲労回復!疲れに効く3つの野菜&腸活に…
  • 5
    飛行中の航空機が空中で発火、大炎上...米テキサスの…
  • 6
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 7
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 8
    ソ連時代の「勝利の旗」掲げるロシア軍車両を次々爆…
  • 9
    ハマス奇襲以来でイスラエルの最も悲痛な日── 拉致さ…
  • 10
    ロシアは既に窮地にある...西側がなぜか「見て見ぬふ…
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ...犠牲者急増で、増援部隊が到着予定と発言
  • 3
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 4
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン…
  • 5
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 6
    朝1杯の「バターコーヒー」が老化を遅らせる...細胞…
  • 7
    墜落して爆発、巨大な炎と黒煙が立ち上る衝撃シーン.…
  • 8
    7年後に迫る「小惑星の衝突を防げ」、中国が「地球防…
  • 9
    週に75分の「早歩き」で寿命は2年延びる...スーパー…
  • 10
    ビタミンB1で疲労回復!疲れに効く3つの野菜&腸活に…
  • 1
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    【一発アウト】税務署が「怪しい!」と思う通帳とは?
  • 4
    有害なティーバッグをどう見分けるか?...研究者のア…
  • 5
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 6
    「健康寿命」を延ばすのは「少食」と「皮下脂肪」だ…
  • 7
    1日大さじ1杯でOK!「細胞の老化」や「体重の増加」…
  • 8
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 9
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 10
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story