「NO」と言えなかった石原慎太郎
とりわけ2012年の、東京都尖閣諸島購入計画(基金)で、ネット保守は石原に喝さいを浴びせたため、そういった保守系雑誌への露出が多くなっていった。特に石原が都知事を2012年10月に辞してから、同年『太陽の党』を設立。そのまま維新に合流するなどの紆余曲折を経て、2014年に『次世代の党(当時)』の最高顧問に就任するや、石原の保守界隈での露出は最高潮に達した。
もっともそれは個人がコントロールする動画ではなく、保守系雑誌でのインタビューやら、対談という形式で行われたのが概ね基礎である。編集者や出版社が忖度したのか、はたまた読者がそれを求めたのか。それに対し石原も忠実に応えたのかは分からないが、石原は都知事を辞してから、既存の保守界隈や、それに連なるネット保守に対し、まったく「NO」と言うことはなかった。すでに述べたような「三国人発言」を筆頭とするように、石原の中には確固としたアジア主義が存在していなかったためであろう。だから石原は、ゼロ年代を経由して2010年代に繁茂したネット上のヘイトスピーチや、2020年代に入るやそれがますます(巧妙に)熾烈になり、臆面もなく引用する、所謂「保守系言論人」に対し、最後まで「NO」と言うことは無かった。
石原がとりわけ、何の因果や個人的経験を以て在日コリアンや韓国・中国人に対する蔑視感情を持っていたかの根拠はわからない。しかしはっきりと、彼は晩年まで、とりわけ21世紀に入って熾烈になったヘイトスピーチや、それを微温的に黙認する保守界隈の風潮に「NO」と言わなかった。
「NO」と言った西部邁
石原より先に天国に行った、保守系論客として批評家の西部邁は、一見すると石原と同じような「反米反ソ(反共)」の新右翼の系統のように見えるが、西部が新右翼の正統派であるからこそ、彼は21世紀の保守界隈の惨状に絶望していた感が濃厚であった。私は西部の晩年、直接彼にお会いしたことがった。西部は「愛国とヘイトが両立している保守界隈」を異常であると喝破し、名前は出さないものの(...実際にはかなり出していたが、ここでは詳述しない)、数々の保守団体を「単なる馬鹿だ」と言ってのけた。
西部は、時としてヘイトスピーチに汚染されがちな保守界隈に対し、とりわけ東日本大震災以降「NO」を顕著に言い続けた。最期まで、ネット界隈で人気の「保守系言論人」を、その教養水準からして哀れみ、彼らの「ファン」も心底軽蔑していた。しかし石原は、私の記憶するところでは、西部が「NO」と言った保守界隈にも、ネット空間にも、ついに「NO」を言うことなく逝った。既存の保守界隈にも、ネットに対しても、「NO」と言えなかった石原慎太郎の実像は、客観的に事実である。石原の評価は、後世の歴史家に委ねられるだろう。
※当記事はYahoo!ニュース個人からの転載です。
※筆者の記事はこちら。
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