社交性信仰が日本をダメにする
大学では話しかけてくる友人という者が居らず、開き直った私は独りで学食に行き、味噌汁を啜り白米を掻っ込みながら『文藝春秋』『諸君!』『SAPIO』『週刊新潮』『週刊文春』等をこれ見よがしに広げて読む生活が始まった。
私の大学には当時学内随一のリア充が集まるとされた産業社会学部があり、そこの1Fの食堂で毎日これをやった。この学部のリア充たちは、ゼロ年代初頭における最先端のモードを取り入れている者ばかりで、良く分らぬが布みたいもので体に包んだファッションをしていた(後にこれがストールと知る)。学食に来る殆どの者が男女混合のグループで、私の様な「孤食」の人間は皆無だった。当然奇異の目で見られたが、私は彼らの中身のない談笑を「敵の慰撫工作であり、ある種の宣伝戦である」と黙殺し、西尾幹二の本を耽読して抵抗を続けたのであった。
この頃から、私は独りで物を食べること、独りで酒を飲むことが常態化した。この癖は、私が結婚して以降38歳になる現在まで何ら変わらない。30歳を過ぎてから少し態度がでかくなってきて、地元客だけが集まるような閉鎖的雰囲気を醸し出す居酒屋でも平気で門戸を叩けるようになった。そこでは一切会話せず(無論、注文と会計の発声はする)、ただ黙々とSF小説を読むか、録音したラジオや落語をヘッドフォンで聴く。誰かと一緒ならこういうことは出来ない。
私は、他者とどう付き合ってよいのか、という根本的な社交性の基礎を身につけないままこの歳になってしまった。初めて会った人とどう話してよいのか、何を話したらよいのか、あるいはどう振舞ってよいのか今でもわからない。流石に歳を取ってきたのでそういう場所に多人数で行けばひと通りの会話はできるようになったが、酒が進むとどんどん独りで喋り出し、仕舞には演説になっている。私の社交性はゼロだ。
冒頭山田前内閣広報官は、その旺盛な社交性をフルに活用して出世したのであろう。しかし最終的には社交性がアダとなって公務員を辞任することになった。社交性が吉と出るか凶と出るかは難しいが、結局のところ凶と出る場合が多いのではないか。大体において違法薬物への依存は「友達から譲ってもらった」という過程の中で検挙される。所謂悪友であるが、社交性が無く友達がいなければ、そもそもこういった悪事に手を染めることは少なくなる。
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