コラム

黒人のアイデンティティーを隠し、有名な「モルガン・ライブラリー」設立の陰の立役者になった実在の女性司書

2021年10月13日(水)19時30分

それらの葛藤がなかったとは言えない。だが、同じく白人として生きているベラのきょうだいは結婚して子どもも生んでいるのだから、ベラだけが生まれてくる子どもの肌の色を心配して結婚できなかったというのは納得できない。ベラの本当のアイデンティティーが暴露されたら家族のアイデンティティーもバレてしまうというのなら、その逆もあるはずだ。小説ではそのあたりの説明がない。

また、人種的アイデンティティーを隠し、女性として男性以上に成功を収めたベラは、平均的な女性のような考え方はしなかったと思うのだ。恋愛観にしてもそうだ。普通の人がくよくよ悩むようなことに時間を費やしていたら、あれほどの成功は不可能だったと思う。

私はこの小説を胸踊らせながら手にとったのだが、正直に言うと、期待はずれだった。

共著者たちが描いたベラには、あの時代に差別を乗り越えてあれだけのパワーを掴んだ女性としてのカリスマ性や説得力が感じられない。ルネッサンス時代の美術史の専門家として著名なバーナード・ベレンソン(既婚者)との長年に渡る恋愛は記録にも残っているが、ベラがこの小説で描かれているようなナイーブな女性だったとは私には思えない。この恋愛に関するベラの心情や言動には同じ女性としてがっかりしたし、本当のベラに対して失礼だと感じた。

結婚は望んでいなかったのでは?

「世界最高級のライブラリーを作る」という自分のレガシーを達成すること以外は、ベラにとってさほど重要ではなかったのだと私は想像する。結婚しなかった理由も子どもの肌の色を心配したのではなく、夫や子どもの世話をしなければならない結婚そのものを避けたかったのではないか。いろいろと婚外恋愛をしているベレンソンとのゆるい恋愛関係を長く続けたのも、結婚や拘束を求められない知的な関係だから気楽だったのではないか。そもそも、「仕事が最も大切であり、恋愛はその気晴らしに楽しむ程度にしか重要ではない」という男性は沢山いるのだから、そういう女性がいても不思議はない。J. P.モルガンの死後にジャーナリストが「愛人だったのか?」と尋ねたときに「We tried!(試みたけどね!)」とベラが応えたのも、彼女の豪快であっさりした性格を示すエピソードではないかと思っている。

私が読みたかったのは、そういう豪快な人物だ。

共著者らは現在の女性読者が同情し、好感を抱き、感情移入できる女性主人公としてベラを設定したのかもしれない。でも、それは超人的な達成をしたベラという人物に対する侮辱ではないだろうか?

ベラという稀有な女性を世に知らしめることには貢献してくれたが、いろいろな意味で私にとっては残念な作品だった。


プロフィール

渡辺由佳里

Yukari Watanabe <Twitter Address https://twitter.com/YukariWatanabe
アメリカ・ボストン在住のエッセイスト、翻訳家。兵庫県生まれ。外資系企業勤務などを経て95年にアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。近著に『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)などがある。翻訳には、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)、『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社、日経ビジネス人文庫)、マリア・V スナイダー『毒見師イレーナ』(ハーパーコリンズ)がある。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

ミャンマー地震の死者1000人超に、タイの崩壊ビル

ビジネス

中国・EUの通商トップが会談、公平な競争条件を協議

ワールド

焦点:大混乱に陥る米国の漁業、トランプ政権が割当量

ワールド

トランプ氏、相互関税巡り交渉用意 医薬品への関税も
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:まだ世界が知らない 小さなSDGs
特集:まだ世界が知らない 小さなSDGs
2025年4月 1日号(3/25発売)

トランプの「逆風」をはね返す企業の努力が地球を救う

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 2
    現地人は下層労働者、給料も7分の1以下...友好国ニジェールからも追放される中国人
  • 3
    一体なぜ、子供の遺骨に「肉を削がれた痕」が?...中国・河南省で見つかった「異常な」埋葬文化
  • 4
    なぜ「猛毒の魚」を大量に...アメリカ先住民がトゲの…
  • 5
    突然の痛風、原因は「贅沢」とは無縁の生活だった...…
  • 6
    なぜANAは、手荷物カウンターの待ち時間を最大50分か…
  • 7
    不屈のウクライナ、失ったクルスクの代わりにベルゴ…
  • 8
    アルコール依存症を克服して「人生がカラフルなこと…
  • 9
    最古の記録が大幅更新? アルファベットの起源に驚…
  • 10
    最悪失明...目の健康を脅かす「2型糖尿病」が若い世…
  • 1
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山ダムから有毒の水が流出...惨状伝える映像
  • 2
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き詰った「時代遅れ企業」の行く末は?【アニメで解説】
  • 3
    「低炭水化物ダイエット」で豆類はNG...体重が増えない「よい炭水化物」とは?
  • 4
    「テスラ離れ」止まらず...「放火」続発のなか、手放…
  • 5
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
  • 6
    【独占】テスラ株急落で大口投資家が本誌に激白「取…
  • 7
    800年前のペルーのミイラに刻まれた精緻すぎるタトゥ…
  • 8
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大…
  • 9
    大谷登場でざわつく報道陣...山本由伸の会見で大谷翔…
  • 10
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛…
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    テスラ離れが急加速...世界中のオーナーが「見限る」ワケ
  • 3
    「テスラ時代」の崩壊...欧州でシェア壊滅、アジアでも販売不振の納得理由
  • 4
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛…
  • 5
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山…
  • 6
    テスラ失墜...再販価値暴落、下取り拒否...もはやス…
  • 7
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 8
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 9
    テスラ販売急減の衝撃...国別に見た「最も苦戦してい…
  • 10
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story