八月十五日の石橋湛山―リフレと小国主義による日本の再生
八月十五日の石橋湛山
石橋自身、自分の次男を南太平洋の戦線で失っていた。社長を務めた東洋経済新報社は、戦禍を逃れるために岩手県横手町に疎開していた。石橋湛山は、終戦の日をその横手で迎えた。石橋の『湛山回想』には、すでに日本の敗戦を予期し、政府首脳へ早期の終結を行うように、人づてに伝えてもいた。
すでに1944年の後半には、当時の大蔵省内での秘密委員会ともいうべき会合で、戦後の国際秩序や経済をめぐる問題を、経済学者、財界人、官僚らと共に議論を重ねていた。そのときの石橋の議論の前提は、先ほどの小国主義に立脚したものであった。この時点で小国主義的な発想を採用するということは、日本の敗戦を前提にしていたと解釈できるだろう(姜克實『石橋湛山』吉川弘文館)。
その意味では、八月十五日のいわゆる玉音放送の内容は、石橋にとっては十分に予期できるものだった。
「だが、一般の人々は、明日陛下の重大放送があると聞かされても、それが日本降伏の発表であろうなどとは、思いも及ばないことであった。したがって十五日正午、いよいよ降伏と発表されるや、皆きょとんとして、どうして良いのやら、どうなるのやら、わからなくなってしまった。わからなくなっただけでなく、恐怖した。敵軍が上陸して来たら、どんな目にあわされるかもわからぬと考えた。自暴自棄にも陥りかけた」
このような「人心の動揺」を目の当たりにして、石橋は八月十五日の午後3時には、横手町の有志の前で、「大西洋憲章や、ポツダム宣言に現れた連合国の対日方針について語り、また日本の経済の将来の見通しについて述べて、心配は少しもないから、安心して日常業務を励むようにと講演した」。
「更生」への道筋としての小国主義とリフレ主義
石橋はその後も講演や雑誌への寄稿を通じて、積極的に戦後日本のビジョンを伝えた。それは敗戦のショックが色濃い国民に、明瞭で具体的な「更生」への道筋を伝えるものであった。そのキーもまた小国主義とリフレ主義であった。以下の発言は、敗戦後数年後のものであるが、同じ趣旨を敗戦直後から繰り返し、石橋は述べていた。
「今日の日本国民は再び臥薪嘗胆、富国(強兵は、あえていう要もなきも)を標語とし、何をおいても経済力の増強に奮励すべきである。富国なれば、もし要すれば、いかなる強兵も養うことが出来る。これに反して、いかなる強兵も、貧国においては用をなさない。それは太平洋戦争の経験が明らかに示した」
経済を大きく成長させることで、潜在的な自衛力も保持でき、また富の再分配による社会保障的な政策も可能になると、石橋は考えていた。そして経済を成長させるには、政府の積極的な財政政策と金融緩和政策のスタンスが要求される。
積極的な財政政策は、長期的なインフラ整備を国債の発行によって行うべきだ、というのが石橋の主張だ。これはもちろん今日の日本経済にも必要とされるだろう。今日の財政政策は、財務省が主導する緊縮・消費増税主義によって侵されている。そのような緊縮政策は、日本の停滞をもたらすものである。この点は、今も敗戦後の日本も変わらない。
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