カーター元米大統領の外交政策――低評価の2つの理由とその背景を検証
Carter Was a Foreign-Policy Visionary
ソ連のアフガニスタン侵攻を予測し切れなかったことは甘かったという指摘も不当な評価だ。カーターはソ連の侵攻前から、イスラム武装勢力のムジャヒディンにひそかに武器を供給し、ソ連が支援する政府と戦わせていた。
カーターの国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めたズビグニュー・ブレジンスキーは後に、「ソビエトのベトナム」をつくりソ連を弱体化させようとしたと認めた。その狙いは成功したが、20年後にタリバンや、アルカイダの創設者ウサマ・ビン・ラディンという形で跳ね返ってきた。
環境問題への先見の明
カーターが注力した第2次戦略兵器制限条約(SALT II)は調印後に米上院で批准が否決されたが、後の米ソの軍備管理を画期的に前進させる土台となった。
80年12月、退任を控えたカーターは、ポーランドで民主化運動を主導していた自主管理労組「連帯」のレフ・ワレサ議長の支持を表明。やがて東ヨーロッパ全域で、ソ連が支援する政権への抵抗運動が連鎖的に発生した。
ワレサは後に、カーターがソ連にポーランドへ侵攻しないよう警告したことが、闘争において重要な瞬間だったと語っている。