ハマスの非道を生んだ「28年前の暗殺」
VIOLENCE BREEDS VIOLENCE
ラビンの写真を掲げて死を悼むイスラエル市民(95年) PETER TURNLEYーCORBISーVCG/GETTY IMAGES
<ハマスによる残虐行為は無から生まれたのではない。米プリンストン大学生命倫理学教授のピーター・シンガーが解説>
イスラム組織ハマスがイスラエルに侵入し、卑劣な攻撃を行った事件は、当然ながら世界各国で非難を浴びている。双方が主張するとおり、これが戦争なら、意図的に民間人を標的にしたハマスの行為は重大な戦争犯罪だ。
だが、ハマスによる残虐行為は無から生まれたのではない。イスラエルとパレスチナ自治区ガザで進行中の出来事が示すのは、暴力はさらなる暴力を生むという教訓だ。
両者の悲劇的対決を回避する最後の本当のチャンスは、1995年に起きた当時のイスラエル首相、イツハク・ラビンの暗殺で打ち砕かれた。犯人は、93年に成立したオスロ合意に反対する極右のイスラエル人だった。聖地主権問題に交渉の余地はないと考えるイスラエルの過激派は、「土地と和平の交換」原則に基づいてパレスチナ側と結んだ合意を憎悪していた。
ラビン暗殺で最も得をしたのはイスラエルのナショナリスト、なかでも右派政党リクードの党首で、現首相のネタニヤフだ。
67年の第3次中東戦争でイスラエルが占領した地区からの撤退を定めたオスロ合意を、ネタニヤフは拒絶していた。同合意とラビンへの抗議として、ひつぎや首つりの縄からなる模擬葬列を率いたこともある。
ラビン暗殺後、とりわけ2000年に米キャンプデービッドで行われた中東首脳会談が決裂して以来、イスラエルでは極右勢力が台頭した。その一方、パレスチナでは穏健路線の主流派ファタハが失墜し、イスラエル人殺害を組織の正統性の根拠に据えるハマスなどが力を付けた。
07年からガザを実効支配するハマスの影響力(と暴力)が、もう1つのイスラエル占領地で、パレスチナ自治政府が一部を管轄するヨルダン川西岸に広がるなか、ネタニヤフが掲げた強硬措置を支持するイスラエル人は増える一方だった。西岸で容赦なく拡大するユダヤ人の入植に、パレスチナ自治政府は歯止めをかけられず、急進主義と暴力の悪循環が続いた。
今年2月には西岸でユダヤ人入植者2人が射殺された事件を受け、現場近くのパレスチナ人居住区の町、フワラが入植者集団に襲撃された。19世紀にロシア帝国で起きたポグロム(ユダヤ人虐殺)を想起させる出来事だ。家や車が放火され、住民1人が死亡し、複数が負傷したが、かつてのロシアの警察と同様、イスラエル治安部隊は住民の保護にも加害者逮捕にも動かなかった。