同じニューヨークで暮らした大江千里が、坂本龍一への追悼文を緊急寄稿「教授、また会う日まで」
TRIBUTE TO MY PROFESSOR
90年代、教授がニューヨークに引っ越されてから僕も『APOLLO』というアルバムのレコーディングでニューヨークに2カ月ほど滞在した。そのとき教授に電話して「会いたいです」と告げたのだ。よく勇気があったなと思うけれど、教授は「いいよ。じゃあ、ホテルへ車で迎えに行ってあげるよ」と滞在先までボルボを運転して来てくれた。
どこか硬くてゴツゴツしているのにオシャレなその車は、ニューヨークのバンプの多い道を何度も跳びはねながらアッパーウエストのレストランへ到着した。最初の教授の印象とどこか重なってうれしくなった。
「ここは面白いよ。ほらごらん」。教授が指差すより速くミニスカートにエプロン姿、ローラーブレードを履いた女の子がオーダーを取りにやって来た。びっくりしている僕に「くすっ」と笑う教授は、淡々とハンバーガーを頼む。僕も慣れない英語のメニューを必死に追って自分の分のバーガーを頼んだ。
音楽の話を夢中でし続けているとあっという間に夕方になった。「ちょっと歩かない?」と教授が言うので、「いいですね」とセントラルパーク横の道を並んで歩いた。本屋に寄る。そこは雑然としたアートや音楽系の雑誌が山積みの店だ。
思い思いの雑誌を立ち読みしていて不意にあるものを見つけて教授を呼んだ。「教授が表紙の雑誌が出てますよ、ほら」「え? どこどこ?あ、本当だ」。僕の手元をのぞき込むと「買っちゃおう」って少年のように手に取り、「千里くんも好きなの買っていいよ。僕がまとめて払うからさ」と、ペロッと舌を出した。
遠慮しろよと思うけど、僕は1冊「スピン」という音楽雑誌を「ありがとうございます」と言って、教授に渡した。
この日の出来事がきっかけで僕はニューヨークにアパートを借りた。どうしても胸の奥にあるモヤモヤをそのままにして日本へ帰るのが嫌だったのだ。この地に身を置いてチャレンジしたい。英語も音楽も。そして僕の最初のニューヨークのアパート生活が始まった。
ある日、たまたまイーストビレッジを歩いていると1人のグレイヘアーの男性がクオーターコインを路上パーキングに入れるところに出くわした。車は見覚えのあるボルボだ。