熱湯の食事を「2分で食え」、缶詰のような収容所...ウクライナ人捕虜、飢餓・拷問・洗脳の実態
HUNGER IS A RUSSIAN WEAPON
そんな状況で、ドミトロは1人の年長の捕虜が衰弱死するのを見た。つい最近までは元気な若者だった兵士たちも、見る影もないほどに痩せ衰えていった。
「とにかく体力を使わないようにした。みんな衰弱していた。少しでも横になり、寝ていたかった」
しかし、中には志願して収容所の外での作業に加わる者もいた。ロシア側に寝返り、マリウポリの前線に戻る者も。
「あるとき、連中は捕虜700人の名前を読み上げ、『おまえたちが壊した町だ、おまえたちの手で再建しろ』と命じた。この700人にはシャベルが渡され、マリウポリ包囲戦の最中に市民が埋めた(民間人の)遺体を掘り起こす作業をやらされた。そうやって、奴らは自分たちの戦争犯罪の痕跡を消そうとした」
それでもドミトロ自身は、さほど手荒な扱いを受けずに済んだという。マリウポリで捕虜になった時点で、既に負傷していたからだ。
傷は癒えず、ろくな食事も与えられず、環境は劣悪だったから症状が悪化し、彼は病院に移された。
ドミトロの入院中、捕虜仲間の1人がロシア領内にあるタガンログ収容所に移送された。2カ月後に戻ってきたとき、彼はドミトロに言った。
「なあ、ロシアの収容所に比べたらオレニフカは天国だぞ。向こうでは1日に3回殴られた。卵をぶつけられ、電気ショックの拷問も受けた」
ちなみにドミトロによれば、オレニフカで「殴られるのは反抗的な人間だけ」だったそうだ。
病院で手術を受け、かえって症状が悪化したドミトロは、扱いにくいから捕虜交換の対象になった。
「あのときは100人ほど解放されたが、自力で歩けない人が多くてね。救急車が10台も来て、それぞれが重傷者を3人か4人、乗せていた」
こうして解放された兵士は、大抵の場合、今も捕虜となっている人たちの家族を支援する活動に従事している。その受け皿になっているのが戦争捕虜の家族会だ。
その1つを立ち上げたのがナタリア・エピファノワ。ロシアの軍事侵攻が始まってすぐ、甥が捕虜となった。
「あの子は兵役に服していたけど、戦場に立つ気はなかった」とエピファノワは言う。
しかしロシア軍が国境を越えた「2月24日にはマリウポリにいて、3月25日には戦場で行方不明になったと知らされた」。
それで彼女はメッセージアプリのテレグラムでグループをつくり、マリウポリで戦う兵士たちの家族が情報をシェアできるようにした。
すると、「5月にある将校から連絡があり、甥はロシア軍の捕虜になったと教えられた。でも詳しい状況は不明。ただ彼が連れ去られるのを見た兵士がいるというだけだった」。