二宮和也『ラーゲリより愛を込めて』の主人公・山本幡男氏の長男が語る、映画に描かれなかった家族史
AN UNTOLD FAMILY STORY
――母であるモジミさんは、夫はいつか帰ってくると、10年間希望を持ち続けたのか。
希望は持っていました。昭和30年(1955年)7月、当時われわれは大宮に住んでいて、大宮市役所から、父の名前が今度の乗船名簿に載っているので舞鶴に着くという通知が来た。母も祖母も喜んで、舞鶴に行こうとしていた。
ところが、舞鶴に旅立つ前日だったか、市役所から今度は電報が届きまして。母は勤めに出ていたので私が受け取ったのだけれど、電報には、ナホトカ港で帰国船に乗り込んだ乗船名簿に山本幡男の名前はない、山本幡男はもう死んでいる、と。母が帰って来たのでそれを見せたら、もう本当に母はね、大きな声でわめいて、畳の上に倒れてのたうち回って悲しんだ。今度こそ帰ってくる、舞鶴に行こう、と思っていたその矢先に通知が来たのでね。
――帰国後、女手ひとつで子供4人を育てるのは大変だったと思うが。
満州から、日本の博多に着いたのは1946年9月10日だったかな。母はひとりで子供4人を連れて(島根県)隠岐の島の実家に帰ったのだが、現金収入も全くないなかで、なんとかお金を稼がなきゃいけない。
母の実家は山奥の小さな集落だったので、魚も何も取れなかった。母は魚を売って稼ごうと、実家から島一番の大きな港まで16キロの道を通って魚を仕入れていました。街中から村に帰る道のりで、朝だけは途中までバスがあって、そのバスが朝7時か8時に出発する。
だから母は朝2時に起きて、子供たちを寝かせたまま、真っ暗な山道をたった一人で歩いて港まで行って、仕入れの籠を背負って、途中までバスに乗り、途中からは歩いて峠を越えて帰って来ていた。
......そんな苦労話をしょっちゅうしていましたね。母は3番目の弟とずっと一緒に暮らしながら、83歳まで生きました。
――顕一さんは父親やご自身のことを本に書き、来年早々に出版するそうだが、本をもって伝えたいことは。
今は日本、あるいは世界全体が大変な時期にある。ただ、山本幡男という人はどんなに大変で絶望的な状況になったとしても、みんなに対して明るく希望を持っていこうと言い続けながら生きていた。こんな人間もいたのだと、父の生き方を示したかった。これからは若い人たちの中から、日本や世界の状況と真剣に向き合い、どうすべきかと考える人がたくさん出てくると思うし、期待したいんですよね。