ゼレンスキーに「覚悟」が生まれた瞬間──プーチンとの「戦前対決」で起きていたこと
ROLE OF A LIFETIME
だが今年2月24日、ロシアによる大規模な軍事侵攻が始まってからというもの、ゼレンスキーは全く違う姿を見せるようになった。プーチンの挑戦をひるまず受けて立ち、ロシアの侵攻へのレジスタンスを率いるリーダーになったのだ。
ロシアとの戦いの中で彼は支持者も反対勢力も、腐敗した役人も汚職撲滅の闘士も、大人も子供も、国籍や宗教の異なる人々をも一つにまとめ上げた。欧州各国の議会でもアメリカの連邦議会でも、喝采をもって迎えられる国家指導者になった。
だが、「神話」を信じがちなウクライナ人の国民性は指摘しておかなければならないだろう。昔のコサックの指導者がイギリスのどこかに大量の金を残したという伝説もそうだし、ビクトル・ユーシェンコ元大統領は救世主扱いされた。ゼレンスキーとその党が、ウクライナ人の抱える問題の全てをドラマのように解決してくれると信じているのもそうだ。
そして、ウクライナの人々が完全に忘れていることがある。「国民の公僕」党はもはやテレビドラマではなく、自分たちの代表であり、子供たちの未来だということだ。
国民はゼレンスキーとそのチームを信頼した。この決断が正しかったかどうかは、戦争が終わった後に分かるだろう。なぜなら選挙公約を果たすかどうかだけでなく、ウクライナの独立のために戦い抜くかどうかは、ゼレンスキーと「国民の公僕」党に懸かっているからだ。
大統領に就任してから数カ月間、ゼレンスキーはプーチンとの会談を望んでいた。東部ドンバス地方での親ロシア派武装勢力と政府軍との紛争に終止符を打つという選挙公約を何とか実現したいと思っていたからだ。そのためには、プーチンと交渉のテーブルに着く必要があった。
ゼレンスキーはプーチンの目を見て、人間として相手を理解したいと語った。だからこそ、ゼレンスキーはドンバスでの再停戦や前線の兵力の分散、ロシアとの再度の和解など、あらゆる対応を取る用意があった。ゼレンスキーは心底信じていたのだ。プーチンの目をじっと見つめれば、少なくとも紛争における1万4000人の死を悲しむ気持ちのかけらくらいは浮かんでいるはずだと。
ウクライナとロシアに仲介役のフランスとドイツを交えた4カ国による首脳会談は、19年12月9日に設定された。これを前にゼレンスキーは、自分の俳優としてのカリスマ性や魅力が功を奏するはずだと、そして東部紛争を終わらせる保証を得られると思い込んでいた節がある。一方で彼は、プーチンも自分と同じくらい「役者」であることを忘れていた。