貧困に生まれ「いじめ」に苦しんだ私を外の世界に連れ出してくれた作文【エモを消費する危うさ:前編】
私は空。表情を幾重にも変える。目に映る私は、広大な空の一部分に過ぎない。
そんなことを書いた。いじめられてから、人が変わったように、自分を押し込めて押し込めて、偽って生きてきた。でも、私はみなが思う私じゃない。もっといろんな感情があって、いろんな能力もある。
"いじめられて不登校になったキモイやつ"。そんなの、本当の私じゃない。決して声には出さない小さな叫びを、その詩に込めたのだと思う。詩は教室の壁に貼り出されたが、きっと目を留める人はいなかっただろう。
言葉で表現し、居場所を取り戻す
3年生の担任は、私を"相談室の子"だからと特別扱いすることはなかった。教室に入った時、スカート丈を少し短くしていたら怒られた。腫れ物を扱うように接するのではなく、他の子と同じように扱ってくれているのだと感じた。
詩が貼り出される時、「ちゃんと書いたんだから、堂々としてな。いいじゃない貼られるくらい」と言ってくれたのも、その担任の先生だった。
先生は、人目を避けて生きる不登校になってからの弱々しい私しか知らなかった。にもかかわらず、いきなり弁論の県大会に出ることについても、まったく心配しなかった。先生はすべてにおいて「大丈夫よ」と信頼してくれている。そんな気がした。
弁論大会の出場が決まってから、すぐに原稿を丸暗記した。そしてひたすら情感を込めるトレーニングを繰り返した。頭のなかで壇上の自分を再現する。
本番では、500人の聴衆がホールに集まった。私の知り合いは同行してくれた担任の先生だけ。お腹が痛くなるほどの緊張も、出番の五分前になるとスッと消え、興奮に変わる。
舞台に上がる。聴衆を見据える。体の奥底から力がたぎる。壇上で、3年間抑えつけてきた感情を爆発させ、すべてをぶつけた。そこに、人の目を避けて息を潜めていた私の面影はなかった。
言葉が躍動する。発する言葉が波のようにうねり、聴衆に届くのがわかった。目には見えないが確かにそこに存在するエネルギーの塊が、言葉に乗って会場を泳ぐのがありありとわかる。
学校に通うという日常は奪われた。でも、この瞬間、この空間、この言葉。これだけは誰にも奪えない。私だけのもの。何かに取りつかれたように語りつくした。壇上を降りたあとも、体の奥は熱く、手は興奮で震えていた。