「ゴルバチョフって奴は分かりにくい男だよ」──「敗軍の将」の遺産とは?
Gorbachev's Disputed Legacy
ゴルバチョフは書記長就任当初、革命の父ウラジーミル・レーニンを手本にしていた。レーニンの功績を極端に美化し、民主主義的な理念の持ち主と見なしていた。スターリンは反面教師だ。ゴルバチョフは恐怖と暴力による支配というスターリンのレガシーを葬り去ろうとした。
ペレストロイカの道半ばで、一党独裁の廃止を決めたゴルバチョフは欧州型の社会民主主義者となった。だがソ連という複雑な大国を、その底流にある権威主義的な手法に頼らず、共産党なしで統治する方法を見いだせなかった。
西側諸国に旅するのが好きで、西側の指導者との対話が好きだった。在任中の口癖は「試しにやってみよう」「やらなければ分からない」「合意が必要だ」だった。「合意形成」をはじめ、彼が政治局に持ち込んだ西側のフレーズは数多い。それらはロシア人の日常会話にも入り込んだ。
ゴルバチョフが「合意形成」で重視した手法は長い演説と、理論を語る多くのパンフレットで、どちらも法令より好んで用いた。彼の話をくどいと感じる人も多かったが、いつ終わるとも知れない独白は、問題を声に出しながら考え、あらゆる側面から評価しているのだと言われた。
しかし、ソ連が抱える多くの問題には痛みを伴う解決策しかなく、ゴルバチョフは次第に話し合いと理論武装で行動を遅らせるようになった。その統治スタイルは、国内の批判派は言うまでもなく、西側のパートナーからも風変わりと見なされた。
経済では国営企業の「集合体」に多くの自律性と利益の分配を認める一方で、失業と不平等を恐れ、私有財産と市場改革を認めなかった。政治では、ソ連最高会議に代わる最高国家権力機関として問題の多い代議員制度をつくったが、共産党の権力に代わる強力な行政府はつくれなかった。
西側の影響を受けてあまりに早く、あまりに大胆に国を開放したことは、権威主義的な伝統が根強い社会に混乱を招いたと非難された。
ソ連の経済的・社会的危機が深刻化するにつれて、軍や治安部隊を使って帝国を維持することを望む声が高まったが、ゴルバチョフは拒んだ。従軍経験がないことは、彼の経歴と世代からすると異例だった。軍の問題には関心が薄く、軍幹部に「合理的十分性」の方針を導入させ、兵器の無制限の蓄積をやめさせた。
核兵器の力を嫌ったゴルバチョフは、ソ連の指導者として初めて核ミサイルを廃棄した。しかし、アメリカが宇宙から攻撃してソ連を武装解除させるのではないかと、長い間、本気で恐れていた。